大変長らくお待たせいたしました。
お疲れ様です。清川です。
ついに最後の日記です。
先ほどインカレのスプシが作成され、これが最後の記入かと思うとさみしいもんです。
夏季長は、400Frで松山さん狩りしようと思ってたけど死にました。
速く入りすぎて、急いでペース落としたけど時すでに…。
結局歴一は50,100,200だけで終わってしまいました。
リレーは短水メリレ以外は歴一総なめです。
なんかどっちも惜しいけど、特に後悔はないです!
それでは引退日記です。
16年間に渡る競技生活の締めくくりで、ほぼ人生の振り返りです。
廣瀬と同じく自分が残したいから書きます。
あと、だいぶ面倒くさいし捻くれているので、気分が悪くなったら飛ばして大丈夫です。
保険かけるのはここまでにして、本編スタート!
【京都大学水泳部…に入るまで】
時はさかのぼり1997年
お散歩をしていた2歳の長男が、深めの水たまりを怖がりました。彼のあまりの弱さに危機感を抱いた両親は、長男をスイミングスクールにぶちこみました。
その後生まれた末っ子も、もちろん例外ではありません。
そうして私は3歳の頃からスクールに通いはじめました。
スクールバスでかくれんぼしたり、平泳ぎが一生合格できなかったり、楽しい日々を過ごしました。
6歳の時、10級?くらいで飛び級で育成コースに入らないかと言われました。
「100IM泳げたら6級のいるかのワッペンあげるよ」
と甘い言葉をささやかれた私は、育成コースに入りました。
そこから週4回1:30練習が始まりました。
当初は女子1人でしたが、徐々に女子も増えてきて、小学校に上がる頃には保育園が一緒だった歩美ちゃんも入ってきました。
3年生のとき、練習がきつすぎて辞めたいと母に相談し、小学校卒業と共に辞めるということになりました。選手コースに入ったら後に引けなくなるので、勧誘は断りつづけました。
ですが一年後、まだ育成にいた同期が全員選手コースに行くといいだし、みんなと話すのが生き甲斐だった私もやむを得ず選手コースに行きました。
(ちなみに私以外は全員中学までに辞めました)
そこから週6回18:30-20:45練習になりますが、本当にしんどい思い出しかないです。
自分が水泳好きだったらよかったけど、練習はきつくて大嫌いだったし、人間関係も難しかったし、競技自体にも興味はなく、楽しいという感情をあまり抱けませんでした。
学校も放課後も、練習のことを考えると憂鬱でした。
土曜はピアノを終えて20時に夜練を終えたら、10時間後の日曜早朝6:00からまた朝練。
日曜午後は明日から学校ということと、終わったらまた夜練ということが憂鬱で、
まあとりあえず基本的にいつも憂鬱でした。
何度も体温計をこすってサボり、やりすぎて母親に怒られたりしました。
毎日必ず来ていた子もいて、すごいなと思っていました。
早く小学校を卒業したかった。
思い出といえば、短水で100m自由形一分割りに本当に時間がかかったことです。
ある先輩が突破を楽しみにしてくれていて、私もそれをモチベに頑張れました。
多分10回以上ダメでしたと報告し、ようやく切った時はすっごく嬉しかったです。
ついに小学校を卒業して、3月に引退?レースに出ました。
が、その時のタイムがJO標準+0.1sで、ここで諦めてしまうのも勿体ない気がして、なんと続ける決意をしてしまいます。
(バカすぎる。)
中学生
放課後はスクールに通いました。毎日、これを高校卒業まであと6年続けるのか、、と考えながら泳ぎました。
当時から私は自分以外の選手には全く興味がありませんでした。
横で泳ぐ子よりは速くいたいというプライドはあれど、でも世界には越えられないほど速い人間がいることは理解していて、広い世界をわざわざ見る事も面倒でしませんでした。
福井は人が少ないし、初めて出た県大会では優勝できました。けど全中切れるレベルでもなく、そもそも全中を見据えてすらなかったし、北信越大会では予選落ちでボコボコにされました。
また、永遠のライバル真衣ちゃんがメキメキ台頭し、どんなレースも毎回2人の勝負になっていました。次第に真衣ちゃんの方が速くなっていき、なかなか勝てなくなり、泳ぐたびに敗者となる生活が続きました。中2の時は勝てないから県大会も200に出たりしました。
私が中3のとき真衣ちゃんは高校生となり、中高で分断されたため私は再び優勝しました。
その年には北信越大会で福井県の女子キャプテンをやってほしいと先生に推薦され、喜んで引き受けました。
ですがあの時、選手の中で反発の雰囲気が大きかったのを何となく感じていました。
そりゃそうです。
地元にいた頃の私は、自分のレース感覚を研ぎすますので精一杯で、真衣ちゃんの記録以外他人には自分から興味を示すことはありませんでした。
名前はおろか、S1は何で、何秒くらいで泳ぐのか、何を目指しているのかとか。
当時は裸眼で人の顔も電光掲示板も見えなくて、余計に名前と顔も一致していない人が多かったです。
自分もプレッシャーがかかるのが嫌で自分の頑張っている気持ちは隠していたし。
恥ずかしながら樋口がその時S1何で何秒くらいだったかも実はよく把握してません。私がそういう人間だったことは樋口は知ってると思います。
地元の友人もほとんどは大学から仲良くなりました。
なので、地元が同じで声をかけてくれるのに全然覚えてないことが何度かありました。ごめんね。こんな私を覚えててくれて嬉しかったです。
そんな奴に統率なんか無理に決まってます。
これで結果も悪かったら追放でしたが、何とか50m自由形で北信越大会優勝することができました。全中タイムは切れませんでしたが、なんとかキャプテンとしての顔がたてられてホッとしたのを覚えています。
でもある程度みんなが自立していてキャプテンの必要性がそこまで強くなかったから何とかなった出来事でした。
JOもふんわり目指してはいたけど、それに向けて頭を使って練習するモチベも、頑張らずにJO切るほどの才能もなく、中学は終わりました。
高1
高1でコロナ休校が開けると、私はディベート部に入部し、授業→ディベート→コンビニでご飯食べる→水泳に遅れて行く
という生活をしました。
サボりに拍車がかかり始め、週に1回は休んでいたし、行っても毎回30分〜1時間くらい遅刻してました。短い練習時間で自分に何が必要か勝手に考えてやっていました。
ウェイトも始めました。
特に水泳にモチベが無かった私ですが、この頃憧れの選手がいました。コロナだったので、その人と対面で会うにはインターハイに自分も行く以外なくて、どーーしてもインターハイに行きたい!!と思うようになりました。
周りに言うとプレッシャーになるので黙って、泳ぎながら、あるいはウェイトをしながらふとインターハイに行きたい気持ちを確認して心を燃やす感じで頑張っていました。
冬に小指を剥離骨折し、泳げなかった時期は毎日バイク20分漕いでました。
高2
ストレスで逆流性食道炎になり、ご飯があまり食べられなくなりました。
しかし、練習や筋トレの前は必ずおにぎりとプロテインを無理にでも食べていたので、今思えば自然脂質制限していたと思います。
体重は54kgほどしかありませんでした。
インターハイに出る条件は、北信越で標準を切る、または上位3位以内に入る、でしたが、コロナ禍真っ盛りだったため、条件は標準切るか優勝する、になっていました。
当時長岡大手に26秒台のバケモンがいたので、標準を切るのが唯一の方法でした。
(今年のインカレではPBでB決残ってました)
標準記録、100Fr 58.81、50Fr 27.15
とりあえずインターハイにいけたら何でもよかったので、まず1日目の100で狙いますが59.16。
2日目の50Frは予選が27.38で、予決の間はひたすら音楽を聞きながら何度も泳ぎをイメージし、決勝で魂の27.10でインハイを突破しました。
国スポが27.12?とかだったので国体標準も割りました。
このとき真衣ちゃんも受験生で2週間しか練習してないのに根性でインハイ切ってきました。
二人でとった懐かしのベストツーショット!
樋口から同期女子が悔し泣きしていたと言われたことはずっと覚えています。
インターハイを狙っていることも誰にも話してこなかったし、逆に相手の苦労だってよくわかろうとしていなかったし、練習は都合よくサボっていたし、喜べるわけないと思います。
周りに切った人が私だけだったので、インハイにむけては一人で練習することになりましたが、出場が目的化していた私は27.7とかで爆死し、国スポも撃沈が予想されましたがコロナで中止になりました。
高3
体育のバスケで、小指を剥離骨折しました。結構重症でした。
その年はコロナによる影響が緩和され、上位3位以内でインターハイに行けるようになっていました。しかも真衣ちゃんは高知大学に進学し、その年のインハイは高知開催だったため絶対に切って会いに行くと約束していました。
もう小指が痛すぎて27.15は不可能でした。
何とか泳いで、3位以内に入りたい。
けど、決勝前なぜか涙が止まらなくなってしまいました。
心配した周りの友達がコーチを呼んでくれて、コーチが慰めようとしましたがメンタルが限界で涙が止まらず。
結果は27.6なんとかで、3位にあと0.1秒届きませんでした。
プールから上がると、同期女子2人が待っていて、2人の顔を見て涙で顔がぐしゃぐしゃになり、それを見て笑う2人の胸に包まれて泣きました。
真衣ちゃんにインハイダメだった、と電話で報告して、そうして高3の7月にいったん水泳から離れました。
中一から6年、サボりながらもなんとか走り抜きました。
その後は受験に集中し、1月に合格したので2月はなんとなく試合にでてました。
よくここまで続けられたなと思いますが、私は多分諦めるのがあんまり好きじゃないんだと思います。
打たれ弱いけど、打たれた状態で終わるのは悔しいって思ってしがみつくタイプです。
【京大水泳部に入ってから】
1回生
水泳を続ける気はありませんでした。
が、学科でできた友達と医学部水泳部の新勧に行くと、普通に楽しくて医水に入ることにしました。
そこで体育会水泳部の話も聞きました。
「体育会には入らないの?」「体育会はすごいよ、毎朝6:30から週6で練習してるらしいよ」
はえー。。大学入ってまで週6で朝練??
頭のおかしい集団もいるもんやなと思いました。
ですが、医水の大智さんから京介さんへ連絡がいき、体育会に誘われました。練習に参加するだけでもどうかと。
そして入部締切前日に初めて踏水会に参加します。
初日もバッチリ遅刻し、大御所の京介さんを外で立って待たせました。
全然入る気なかったけど、優二郎さんと幸登さんは全力で勧誘してくださいました。
そこで、
一緒にインカレ目指さないか。
と、持ちかけられます。
この一言から私の大学人生が変わりました。
とても嫌な予感がしました。
インハイはほぼ勢いで切ったし、JOに手こずってた苦い思い出も蘇りました。
あの苦しみをもう一度繰り返すのか。
そして、切れなければ深い後悔を残すことになります。
ですが、インカレという選択肢を提示された以上、挑戦もせずに諦めるのは悔しい。
全国で活躍する友達と同じ舞台に立ちたい。
だから、、、
『のびのび医水でインカレ狙ってみることにします。』
「インカレ出たいなら体育会入ってないと出られないよ」
『え?』
「体育会に入るなら、締切は明日までだよ」
『え??』
えぇーどうしよー。
うーん。じゃあ、入るか!!
翌日『入ります!』
こうして入部締切当日に入部が確定しました。
私も適当すぎですが、今思えば誘われ方も詐欺的です。
しかし当時の私は医水の練習にも参加したいからという言い訳をして体育会の練習を多くても週2回ほどしか参加していませんでした。
周りの選手に自分から興味を持たない性格は大学でも変わらなくて、人の名前も全然覚えられないし、当時女子主将の日奈子さんや幸登さん潤さん、同期で話しやすかったあきひろ以外とはほぼ誰ともしゃべらず泳ぐだけ泳いで帰っていました。
そんな状態の私に、珍しく練習に来た時は堀さん中心にみんなが名前あてクイズを実施してくれました。
めぐさん、あのとき花さんと呼んでしまってすみません。
当時あいが部内に3人いたため、区別のため日奈子さんから「あいぼう」を命名されました。(なぜ坊?という感じですが、NFで水着的当てを思いつく日奈子さんの思考はやはり常人を凌駕しています。)
正直体育会水泳部という集団に所属する以上、練習のノルマも守れない人間がいるなんて、全体の士気も下がるし迷惑だし、完全イレギュラーです。
さらに毎回のように遅刻していたので、本当に扱いに困っただろうと思います。
ですが当時の幹部は、ここで強制したらコイツは確実に辞める、と私を直接咎めることはせずに何とか対応してくれていたことを後から知りました。
私は大学でも色々なことに挑戦したくて、救急医療とかIFMSAとか、入部前の時点で色々なイベントを土日にいれていました。
なので、春短も関チャも夏季公も七帝も、ぜーんぶ未参加でした。
入部当初から関国だけは絶対に出てほしい、とくぎを刺されており、そうして体育会として初めての試合となる関国に出場しました。
50Fr優勝しました。当時の優勝タイムは27.71でした。
あっさり優勝しますが、翌年からは優勝タイムがめちゃくちゃ上がります。
中高はプールが無くて水泳部も無かったので、応援し合う仲の人は同じクラブの10人にも満たないメンバーだったし、お互いレースがあったりコロナ禍は声も出せなかったりで、チームメイトの集団に応援される経験は関国が初めてでした。
決勝で優勝して応援席を見た時、青いメガホンをふってみんなが立ち上がって喜んでくれました。レースのあと、あれだけの歓声が降り注ぐのは生まれて初めてでした。
自分の泳ぎが誰かのためになる、大学水泳の楽しさを初めて知りました。
表彰のあとアベック優勝をきっかけに初めて中堂と話しました。
最初間違えて中堂に敬語をつかい、寛真さんにタメ語で話しました。すみませんでした。
練習に参加しないくせに試合だけ出る私を良い顔しない人がいてもおかしくないのに、みんな祝福してくれて、裕一朗さんにMVSをもらいました。
体育会水泳部という組織にすっかり魅了された私はその後ようやく毎日の参加ノルマを守って参加するようになりました。
幸登さんが嬉しそうにしてくれました。
関カレはあまり記憶がありませんが、初めて回生でご飯に行き、みんなで重いメガホンをかついで終電ダッシュした記憶は残っています。
似てる。
当時は100Fr長水1分割りをかなさんに見せたくて頑張っていました。
新潟全国公では1つも決勝に残れませんでした。
応援席でひなたさんのFly決勝を見て、来年こそは私もあそこに、、と思いました。
関西みんなで歌うチャンス襲来はすごく楽しかったです。
そして最後の8継、裕一朗さんの魂のスイム、りょうせいさんの56秒台、全国公5位。

当時の私はその価値をしっかりと理解はしていなかったものの、周りの興奮と盛り上がりは目に焼き付いていて、その後の引退会見で「全国公5位ですよ!!」と興奮する裕一朗さんの姿もよく覚えています。
1分割りは結局できずにかなさんを引退させましたが、翌週の西医体で木下くんのアドバイスをもらって59秒61をマークしてシーズン終了しました。
9月のオフに入りました。
地元の先輩や友達、そして関西で出会った人たちのレースが見たかったのと、当時大学生になって一人で旅行できる楽しさに目覚めていたので、有名な選手も全然知らないくせにインカレを見に単身で東京まで行きました。
そこで谷口卓さんの伝説の100Br優勝レースを生で見ました。
旗入場と優勝の感動は言うまでもありませんが、その後ビジョンに映った大盛り上がりする中京大学の人たちと、掲げられた「59秒台!」「再び頂点へ」の文字が強く印象に残りました。
速い人全然知らんくて、当時卓さんのことも初めて知ったけど、優勝までにたくさんの苦労があったのだということは学生たちの盛り上がりが物語っていました。
大学水泳っておもしろい!!
ちなみにその2年後、玲太マンの働きかけで京大に卓さんが来てくださり、生のご本人と喋るすごい経験ができました。京大訪問を前に幸登さんにおすすめされて引退日記を読んで、あの優勝レースの価値をもう一度実感しました。
近年は当然のように京大にインカレ勢がいますが、ラッキーなタイミングだと思います。
インカレに限らずですが、せっかくの機会には積極的に飛び込んでみるといいと思います。
思いがけない出会いがあるかもしれないし。
自分は引退までにはインカレ割れてたらいいやと思っていたけど、お世話になった幸登さんにインカレを割る姿を見せたいなと思いました。
総乱舞シーズン
シーズン目標は「インカレに出て、ベストを出す」にしました。
これはひなたさんが引退日記で『インカレにでることを目標にしていたのがよくなかった』と言っていたからで、高校時代の自分にも当てはまることだったからでした。
班制度では潤さんの班に振り分けられ、毎週潤さん梅さん後藤さんと一緒に筋トレしました。
潤さんは毎回私の懸垂の補助をしてくれて、おかげで冬季公認前には懸垂ができるようになりました。
このころたくさん食べるようになり体重は60kgを超えました。
当時の写真を見ると顔がまんまるです。
後期はレポート評価の人社ばかりを履修し、絶賛大学生してた私は、毎日朝練して寝て筋トレもしていました。
なんなら朝練がおわったあと野球部の朝練にも行ったりしていました。
冬季公認の2継1泳では覚醒し、1日目の個人27.03から一気に26.45がでました。
すでにインカレに行く実力があると気づきました。
終わってプールサイドの応援席に行くと、幸登さんもだけど、いつもムーっとした顔だったささむさんがすごく嬉しそうに笑ってたのが記憶に残っています。
その後一旦冬に気持ちが落ち込み、寒いからモチベないと言い訳をして練習で遅刻欠席を繰り返すようになりましたが、大月からのLINEと、遅刻防止に幸登さんが電話をかけてくれるようになったことで、また練習にいけるようになりました。
春室まではあの26秒は幻だったんじゃないかと不安でした。
しかし、春室で再び個人で26秒台がでて、完全に実力だと分かりました。
2継でタイムをあげて26.40で泳ぎますが、インカレ一歩及ばずでした。
はたから見たら、もうすぐ切るだろうな、って感じだったと思います。
けれども、私自身はこの時、すごく長い戦いが始まる悪い予感がしていました。
私の予感って結構当たるんですよ。
にしても、まさか再びタイムを戻すのに2年半もかかるとは、、
また、その年は春短に合わせていたので、春休みだしお遊びエントリーしようってことでメリレでバッタに出てみました。そしたら短水1:05で思ったより速くて、そこからメリレはバッタになりました。
潤さんには、春室MVSにしようとしたけど、遅刻のし過ぎと、インカレ突破時にあげたいから、と言われてお預けになりました。
春休みは2時間練習をして、春合宿では、海沿いの一棟貸しで水泳部皆で旅行してるみたいな気分で、とにかく宿が楽しみで頑張れました。

めっちゃ楽しかったけど、タイムはあんまり良くなくて、内心焦っていた記憶があります。
総乱舞シーズン前半は、水泳部の想い出の中でもトップクラスに楽しかったです!
本当は研究室にももっと行かないとと思っていたのですが、なんとなく動きだせなくて、ほとんど行きませんでした。2回生ではもっと頑張ろうと思いました。
2回生
基礎医学の第一関門、解剖実習が始まりました。
1個下が入ってきましたが、変わらず周りの選手に自分から興味を持たなかったし、後輩という後輩を持ったことがなかった私は、全然先輩できませんでした。
何なら専門が始まって余裕がないのに、一番下じゃないと先輩に甘えられなくて嫌だなと思っていました。
専門が始まったことで、毎日ギリギリの生活をするようになりました。
朝練終わったらすぐ解剖の予習して、講義受けて午後解剖、終わったら夕方はラボで実験か、バイトか新歓イベント。
今思えば思い切ってどれか休んだり、予習だって先輩の資料をもっと使ったってよかったのに、私は全部やろうとしました。
私はこの頃から少しずつ「こうあるべき自分」に囚われるようになっていました。
自分は特色で合格していて、大学から医学研究者としての素質をもつ人間として期待されて入学した人間です。
京医の周りの友達は、精力的にラボに参加したり、講義をしっかり理解して学びを深めたり、みんな素質をもっています。
だから私も、研究者の卵らしく無理にでも興味を持ってラボにも参加しないといけないし、解剖でも実習の時点で構造はすべて理解しているべきで、良い成績もキープすべきで、野球部とかMESSとかバイトでも、技術を高めながら人との関係も大切にするべきで、会話でも相手の求める返答をするべきで、、
こんな風にそれぞれの世界にこうあるべき自分がいて、全部こなしたい思いで出来上がったスケジュールでした。
ですが、全てにおいて優等生になるのは不可能でした。
基礎研究にも周りほど興味を持てずに、将来に直結しない水泳とか他のことばっかやって、そんな自分の姿が、医学研究者の素質があるようにはどうしても見えませんでした。
会話でも相手の求める返答を探っては失敗したと思うばかりで、次第に毎日どこで誰といても自分はどこか足りない人間だと思うようになりました。
このギリギリ生活を続けていたある日、ラボ同期が今後も来るなら週3以上は必須と教授に言われたと聞きました。
私も週3ノルマを課せられたら今の生活もう回らない。
あ!無理だ!!と思い、同期グルでよるねぼしました。
何人かが集まってくれて、話を聞いてくれました。
この写真、水泳部のあたたかさが詰まってて大好きです。
そして人を集めときながら自分は解剖の勉強してるところが、最高に追い込まれてますね。
皆と話したおかげで元気が出ました。
翌日覚悟してラボにいくと、同期が本気で頑張りたいと行ったから週3ノルマになっただけで全員ではない、といわれ、スケジュールの崩壊は免れました。
ですが依然無理なスケジュールをこなし、引き換えに体調を崩すようになりました。
後半は鼻水をすすってぶるぶる震えながら解剖をしていました。
私の順調だった水泳ライフは次第に崩壊していきます。
私は地元の先輩にもらった「目標は口に出した方がいいよ」というアドバイスを、何も考えずそのまま受け取って、色んな人に言いふらしていました。
結果、会う人みんなに「インカレ行けそうなの?」と聞かれるようになりました。
こうあるべき自分に皆のインカレへの期待に答えることが追加され、相当なプレッシャーになりました。いつしかインカレは私が行きたい目標ではなく、周りが求めるから行かないと行けないものになりました。
多分、こうなる事が分かってて、高校の時は誰にも言ってなかったのに、迂闊でした。
なのに対照的に調子は落ちていきました。
ここでさらに不運が重なります。
解剖は前後半2回の試験で成績が決まりますが、両試験がよりにもよって関チャ、関国の翌日の1、2限でした。
特に解剖は専門の初試験で手の抜き方もわからず、確実だったのは落とせば落単ということ。
毎日意識的に勉強はしたものの、関チャ前日に野球部で勉強会をしたところ、自分の勉強が全然足りてないことがわかりました。
この時点でもう試合どころではなく、パニックになりながら勉強して秋葉山までいき、秋葉山でも自分の競技40分前までずっと勉強し、京大の人のレースの時だけ応援してました。
この態度にはあとで幸登さんから苦言を呈されました。でも当時の自分は追い詰められたように勉強してて水泳どころではありませんでした。
(けど実は27.16、59.40で泳いでて結構速かったです。27.16のラップ帳を見たら、当時はほぼ生涯ベストでマネさんも大喜びだった記録が残ってました。努力の成果。)
解剖後半も骨盤の情報量が多すぎてもう勉強が追いつかず、そのまま関国突入しました。
涼夏ちゃんに負けて、裏では中堂が連覇してて本当に悔しかったです。
でもこの年の状況で関国で完璧なパフォーマンスをするのは無理でした。
翌日100ではギリ涼夏ちゃんを討伐できたけど、とにかく泣きながら解剖の勉強してた記憶があります。
解剖は無事一発合格しました。
その後一旦試験が落ち着き、近医水、七帝、福井県選、関カレ、全国公、西医体、魂の6週連続試合をこなしました。若いなー。
また、対抗戦になるとラボに通う余裕がなくなってきて、
一旦、インカレを切るまでは水泳に集中します!と言い残して、ラボから逃げました。
この頃から中堂がさらにのびはじめました。
モーツァルトとサリエリじゃないけど、中堂は練習でもほどよくふざけてるけど速くて、私は真面目にメニューに忠実にやっているのに調子が落ちて、不条理な差を感じました。
インカレを割れるか、涼夏ちゃんにも負けたくない、とプレッシャーがかかる中、
関カレの学校紹介で注目選手が中堂になっていて、泳ぐ前から負けたような気持ちになりました。
関カレでは100Fr58秒台を人生初マークしました。
1分割りの代わりに59秒割りをかなさんに見てもらえて、めぐさんが立ち上がって喜んでて、すごく嬉しかったです。
2継で最後のインカレチャンスを逃しました。そのリレーでは桜さんあずさん廣瀬とで歴一をとることができ、桜さんを歴一に載せられたことで盛り上がっていました。でも当時の私にとっては歴代よりもインカレを割れなかったショックの方が大きかったです。潤さんが慰めに来てくれました。
若干不満そうな顔。桜さんごめんなさい
58秒台を出したのもあってMVSをいただきましたが、インカレを割れていないので、M(宮田的)ValuableSwimmerという仮MVSとなりました。
全国公では100で初の決勝進出を決めました。
1年前の憧れの舞台に立ち、関西でチャンス襲来を歌ってもらいました。
58秒台も出せて満足して終わりました。
その後東大戦OB戦をぶっちして西医体に出場し、再び58.83を出しました。
女子から「あい西医体がんばれ!」の動画が数本届きました。
これがとっっても嬉しかったです。水泳部のあたたかさをまた嚙み締めました。
わっちさんと由来のやつとかもあったのに消えました泣
夏季長で桜さんめぐさんから手紙をもらいました。そこには「絶対インカレいってね」という言葉がありました。
桜さんからインカレのことは一度も言われたことはなかったけど、最後に手紙に託してくれた期待に、絶対切れたって報告したいと思いました(これは紛れもなく私の気持ち)。2人からの手紙をリュックにいれて毎日持ち歩きました。いまやぺっちゃんこになりました。
STARDOMシーズン
新シーズンの目標は、200Frがんばる。でした。アプローチを変えてみました。EN強かったし、200を頑張る過程で泳速が上がれば50のタイムも自然とあがるのではという考えでした。
しかし、新シーズン最初のメインで肩を痛めました。
重症の怜花さんに、私の初期症状と同じだから気をつけろと言われ、泳ぐのを控えました。
また、同時に組織学実習や基礎医学の試験ラッシュがはじまりました。
医学科は科目ごとに一気に授業をやって試験、一気に授業をやって試験、というシステムで、この時期は実習もありながら月に2回くらい試験もありました。
しかもその1回も、学年の7割が落とされる難しい試験とかもありました。
試験直前は頭は医学モードに入って、それと肩痛が重なって、水泳からもどんどん離れていきました。
そのころ留学生のFrancesが入ってきて、良い勝負相手でしたが、私は肩が痛くて水泳から気持ちも離れていたので、ほとんど一緒に泳げませんでした。
冬季公認では直前まで棄権を検討していたレベルで、ひどいタイムでした。
怪我って嫌ですよね、肩が痛くならないように練習を控えるのに、痛くないと、私ってサボってるのかなって気持ちになるし。
STARDOMシーズンの冬場は、100の引継ぎが1年ぶりだったから出したベスト以外は結局一つもベストがでなくて、毎回ラップ帳もベストを出せずに余白が多くて、楽しい瞬間がなくめちゃくちゃしんどかったです。
試合後はなるべく同期会を開こうと提案していましたが、この時期は本当にメンタルがおわっててあまり声掛けしていませんでした。他の同期の変化にも全く気付く余裕なんかなくて。たしかこの時期はあんまり同期会を開いてませんでした。
ラボでも、同期は精力的に活動をしており、研究発表を見に行って研究の面白さより自分の至らなさを実感させられる一方でした。どうしたら良いのかわからないまま教授に相談に行きました。
「今の参加頻度で次のステップに行くのは難しい、大体、インカレ割ったら集中するって言ってたけど、いつインカレ割るんですか?」と言われました。もう限界すぎて、その時教授室で大泣きしました。
先生テンパってました、本当に申し訳ないです。僕も学生時代は体育会でスポーツに明け暮れていたし、清川さんもそれでいいと思うよ、って言ってました。
また、前頭葉を研究している助教が、話を聞いて私を心配してくれました。
人間の脳は20歳くらいで大体完成するけどね、前頭葉だけは今が成長期だよ。今頑張ると前頭葉めっちゃ成長するから。色々頑張れ。と言われました。
お二人のおかげで将来の方針も少し定まりました。
年末年始は家族旅行にいき、久しぶりにありのままの姿に戻りました。
そこから京都に戻ると、またこうあるべき自分との差に苦しむ日々が始まり、落差がすごくて抑うつ状態になりました。何か悲しい出来事やきっかけがなくても勝手に涙が出るようになり、とにかく人に会いたくなくて、家の外に出れずずっと引きこもって泣いていました。
練習も肩が…と言って年始しばらく休みました。
授業とかも出れなくて あ、けど試験の日はなんとか教室に行きました。
こうあるべき理想を一つも満たせない自分自身の存在価値を次第に見いだせなくなり、生きる価値のない自分が親のお金で食って生きながらえていることに強烈な罪悪感を覚え、死にたいというか、はなから存在ごと無かったことにしたいと思っていました。
この時結構危なかったですね。
もう女子主将は廣瀬に任せて水泳部も辞めちゃおっかな、と本気で思いました。けどインカレ割れないまま逃げるのがどうしても悔しくて辞めませんでした。
森田さんの外務会をきっかけに久しぶりに外出して、少しずつ練習には行けるようになりました。肩が怖くてしっかりは泳げなかったけど、たまに休んだりしながら行きました。
インカレ突破の義務感はそのまま、タイムは到底インカレからは遠かった時期で、つらくて、水泳から逃げたい気持ちもありました。
涼夏ちゃんがインカレを突破したという話が入ってきたときは、
先を越された!というショックをうけましたが、
試験直前だったのでウイルス覚えなきゃ...!とすぐに切り替えて耐えました。
続いて春室で中堂がインカレ割りました。
先越されて悲しい思いもありましたが、さすがにやっぱ感動したし嬉しくて泣きました。
私は肩が痛くて決勝にすら出れなかった。
春休みには肩痛を心配して敏腕元トレーナーのしょうさんが肩の様子を何度か見てくれました。その時、肩甲骨を動かす腕の癖をつけてもらい、腕ではなく背中で泳ぐ意識がついて、ようやく肩を傷めない動きができるようになりました。
地味にこれはブレイクスルーでしたしこれが無ければ今だに泳げていなかったかもしれません。
しょうさん、その節はありがとうございました。
また、私が消えている間フランセスと廣瀬が登山して私にお守りを買ってくれました。
幸せ夢叶う守り。また一つ頑張りたいモチベができました。
春合宿はキツくてずっと寝ていた記憶しかなく、最終練習では肩が限界を迎え、きつすぎて涙を流す廣瀬を横目に自分はバイクタバタで合宿を終えました。