お疲れ様です。
髙木(大)です。
もう引退日記を書かないといけないのかと思います。
ありきたりな表現ですが、あっという間の2年間でした。
4回で自分が一番暇かなと思い、余った日付にしたら全国公の前日でした。
どちらかというと失敗ばかりの水泳生活でしたし、大会前よりは、大会後の暇な時にでも読んでみてください。
そこまで長くない水泳人生を振り返り、反省と謝罪と感謝を綴ろうと思います。
スイミングスクールに通い始めたのは実は幼稚園?か小学校の低学年?でした。全く記憶にないのですが、通い始めてすぐに中耳炎が悪化してしまってやめさせたそうです。
昔から体が弱かったので、仕方ないと思います。
少し成長して体も多少強くなったので、小学校を卒業するまでの1年半くらい、再びスクールに通いました。
といっても育成ですし、週2回ですし、友達と遊ぶために行っていたので、まともに取り組んでいません。
何とか4泳法は泳げるようになり、何級、何段、みたいなのの200IMを完泳する、まで突破しました。
それ以降は大会のタイムだったので、進んでいません。
まず、大学まで大会や記録会に出場したことがありません。
中高と別の競技をし、大学から水泳を再開しました。
最初は大学で全く運動しないのもよくないな、ヨットはもうやらないから水泳くらいしかまともにできるものがないな、くらいの軽い気持ちで始めました。
気づけば一応はちゃんとやり始め、気づけば体育会に入っていました。
小学校では飛び込みやクイックターンも何も知らず、プルブイやフィンなどの道具も見たことがなかったので、大学に入ってからどれも新鮮でした。
4泳法をそれぞれFly,Ba,Br,Frと略したり、平泳ぎをブレと呼ぶのもはえ~という感じでした。
最初の練習で50mの測定があり、下から、しかも激遅タッチターンで36秒くらいだった気がします。初めての50m計測にしては結構速い気がします。
2週間目くらいで初めて飛び込みもしました。水面は高いし台も低いのに「こわい~」って言いながら飛んでました。
練習も25m単位ならいいのになんで50m単位で泳がないといけないんだ、と思っていた記憶があります。
かなりしんどかったです。今もしんどいかもしれません。
その後、1か月目くらいで初めての大会があり、50Frで33秒でした。
このあたりからちゃんと頑張っていた気がします。練習は任意参加でしたが、週5で参加していました。
2か月目くらいの次の大会で30秒を割るぞと臨みましたが、30.6で悔しかったです。今思えば0.6は結構遠いです。
ここで200Frにも出場していました。タイムは3'20です38→50→60→60みたいなラップです。
50Frで30秒なら+10秒の40秒を4回や!だから2'40や!とエントリーし、最初の50で周りについていったら爆死しました。
アホすぎますけど、この時くらいのノリと勢いが眩しいです。
しかも、ターンもまともにできない中、無理やりクイックターンをしていましたが、3回目のターンで回るのが早すぎて足が壁に当たりませんでした。温情で失格にはなりませんでした。助かりました。
少し期間が開いて、5か月目くらいの短水の大会で29.68、初めて30秒を割れました。飛び込みは大ミス、ターンは滑っての30秒割りだったので28秒くらいまではすんなりいけそうだ!とこの頃はイケイケだったと思います。
100Frは1'08.87でした。この時くらいから100m以降無理だなとか思い始めていました。
実はこの大会は関国OBOGなので、同期とはすれ違っているはずです。一緒に琵琶湖周航も歌いましたし。
しばらく大会はありませんでしたが、10か月目くらいの練習で短水28.3が出ました。
この頃に、先輩と体育会の練習に参加させてもらったことがあります。100のDiveで前半は楽に速く、後半はギアチェンジ、みたいな練習でした。
その後、1年目くらいの京大プールでのTTで28.3が出ました。引退レースの七帝の50Frが28.3なので、この時のタイムにすら勝てていません。
長水シーズンになりましたが、僕は昔から日差しがダメで、小学校の全校集会などでもしばしば倒れていました。
医水の練習時間は8時半から10時までで、2回生の長水シーズンは毎回熱中症になり、どんどん調子を崩してしまって夏の大会はあまりいい結果が出ませんでした。
西医体で2継の引き継ぎが27.5くらいだったのはよかったと思います。
医水のオフシーズン、体育会の夏季長前に1週間練習に参加させてもらいました。
夏の大会があまりうまくいかなかったこともあり、いろいろな人に相談して、よりレベルの高い環境でやりたいと思い、体育会に入部させてもらうことにしました。
あの時、みんなが背中を押してくれて心強かったです。
2回生の後期から満を持して体育会に入部させてもらいました。
そもそも練習についていくのに精いっぱいで、どの練習もしんどかったです。
とにかく途中入部ですし、遅いですし、”参加させてもらっている”という意識だったので、どのメニューも頑張る、筋トレも頑張る、の意気込みで練習していました。
しかし、11月に膝を怪我してしまって、しばらくは様子を見ながら、プルを中心の練習でした。
12月の冬季公認で50Frは27.99で、初の28秒切りでした。ラップ帳を見返して、ここが初の28秒切りなんだ、と思ったくらいには記憶にありません。
100Frは1'03.85でした。
その後、年始にインフルエンザに感染し、大きく体調を崩し、病み上がりの状態で医水の大会に臨みました。
2継のAメンに選んでもらい、相当に気合の入った大会でした。
2継のアップだぜ~といいながら軽く泳いだ50Frが27.57で、0.4秒くらいの更新です。
6秒台出したるぞ、との意気込みだったので当時は「まあまあ、次の2継が本番ですわ」と思っていましたが、この記録が短水のベストで1度も越せませんでした。
1番近くて2回の春室の27.61で、そこから引退まで27秒台すら出せませんでした。
2継のタイムは26.55で、他のメンバーにキャリーしてもらってありがたいことに賞状をいただけました。
100Frは1'03ジャストとかでした。
これ以降は体育会の大会がメインです。
結局、短水の50のベストはこの2回の医水の大会、100のベストは3回の夏季公。
長水の50のベストは3回の関中の初ベスト、100のベストは3回の関チャでした。
全体として最後のベストは関チャであり、数えてみるとその後引退までの26レース連続でベストを出せなかったことになります。
3回の春ごろから調子が悪くなり、次こそは、次こそは、と臨みましたが、その度に全くだめで、関国で一度完全に折れてしまいました。
特に100Frはベスト+3秒の大失敗でした。
1回の医水の対抗戦で自分も速くなって部に貢献したい、と感じたのが頑張り始めたきっかけでしたし、対抗戦の重要さは理解していたつもりです。
関国では自分は点数争いには絡めませんし、とにかくベストを、とかなり気合いを入れて臨んだ大会だったので、がっかり。
その後、強化練が始まりましたが、この時によくなかったのは、疲労管理や練習を何のためにしているかなど、何も考えずにもっと練習をしようとしたことです。
練習終わりにそのまま毎日ジムに行って、全然重量もあがらないのに無理やり筋トレをして、無理やりバイクを漕ぐ、みたいなことを始め、当然更に調子を崩してしまってそれ以降の夏のレー
スは散々でした。
9月のオフにも、焦りからぼちぼち泳いでしまっていたのですが、今思えばここで完全にオフにして、体と気持ちをリセットするべきだったなと思います。
また、ここで更に悪手を重ねました。
水泳とは全く関係ありませんが、ここまでの人生で何度も絵の練習をしよう→すぐやめるみたいなことを繰り返していました。
小中校と身近に「こういう人が才能がある人なんだな、自分には向いていないな」と思うような人がいたため、いつも「まあ絵の練習しても僕は将来これで食べていくわけじゃないから」と言い訳をしてやめていました。
3回生も後期であり、卒業して医者をしながら絵の練習をするのは確実にできない、これまで色々なことをやってみようとして、やめて、それでも最後にまだ絵を練習しよう、と思っているのであれば、後悔しないようにやるべきではないか、仕事や何か目的のためではなく、才能がなくても自分がやりたいからに従ってみてもいいのではないか、と思い練習を始めました。
3回の後期から勉強も本格化し、水泳もラストシーズンで、二兎どころか三兎を追わんとするシーズン始めでした。
結果は見えていた通り、全部が中途半端になってしまい、10月こそまだ順調でしたが、11月で完全に崩れ、それ以降は下降の一途を辿ってしまいました。
勉強に対する半端な志も悪影響だったと思います。
3回の後期からが臨床科目が始まり、格好だけは立派に、試験に受かるだけでは不十分、将来のことを見据えてできる限りやらねばならない!と思い、常に「もっと勉強しないと」という意識が頭の中にある状態で過ごしていました。
実際の勉強時間がどうだ、とか、試験があるから大変だ、とかではなく、この意識が問題だったと思います。
ずっとストレスで、神経が昂ったような状態で、気持ちを休めることをしていませんでした。
加えて、受験期から夜に勉強はできなかったので、勉強だけなら夜は休んでいたはずなのに、そこで夜は絵を、としていたのが、悪化に拍車をかけました。
当然これでは体も休まらず、練習もまともに頑張れず、常に体がきついために勉強時間も減り、更に焦りが増してストレス、更に体を壊す、の悪循環で、気づけばベストから大きく遠ざかっていました。
冬季公認には体調が悪すぎて出場すらできませんでした。
多少は改善しようと思って、まず筋トレを諦めました。これもベストが出なかった要因の1つではあると思います。
といっても体力的に限界でしたし、どうしようもありませんでした。
一応はFr shortのパートリーダーをさせてもらっているのに、練習は参加できない、ベストは出せない、体調不良による欠席続きで久々の週オフになってしまって休みを書き忘れて無断欠席になり、更衣室で道具を忘れたことに気づいて取りに帰って遅刻をし、あまりにも情けなく、本当に申し訳なさでいっぱいでした。
最初の試験が9月半ばで最後の試験が2月半ばだったので、実に半年ほどこの状態で、春室の頃にはもう心身ともにマイナスの感情すら通り越して無でした。
そもそも体に力が入らなくて、100%を出そうとしても30〜40%くらいしか動かず、レースで台の上に立つと足が震え、体が萎縮してしまって全く動きませんでした。
ここで辞めて中堂清川さんにパートリーダーを押し付けて迷惑をかける方がマシか、ベストが出ないまま続けて脚を引っ張って迷惑をかける方ががマシか悩みました。
しかし、もうあと半年もありませんから、ここまで来たらなりふり構わず、自分のためにとにかくやり切るしかないと思い、最後まで走ろうと思いました。
生活を含めて自分にできることはできる範囲で頑張り、多少お金がかかってもいいから後悔しないようにと思って、全部を見直しました。4月から引退までずっとヤクルトY1000も飲んでいました。1日160円ですから結構な課金です。
効果はあった気がします。七帝が終わって一時期やめていて、睡眠の質が悪すぎて飲み直したら変わった気がするので多分効果あります。
結局、体感で効果があろうがなかろうがどちらでもよくて、終わった時に「あれをやっておけばひょっとして」ということがないようにするのが大切な気がします。
その甲斐があったかはわかりませんが、春短では久々に少し復調の兆しが見えました。
夏季公は3回生で最後に短水100Frのベストが出たレースですから、次こそと思っていましたが、何度目かわからない大沈没。
関チャはさらに悪化し、50Frは29.5、100Frは1'06.8と、体育会に入ってからは最も遅く、あまりにも沈没でした。
体育会に入る前と変わらない、なんなら50Frにいたっては1回生の頃の方がもっと速く泳げそうなタイムです。
しかし、この頃は練習はそこそこいい感じで、しばしば「お前最近ちょっと速くなったのではないか」と言われることもあったので、沈没ではありましたが、これまでのようにガン萎えすることはなく前を向けました。
ここまで来たら大ベストや、当初思い描いていたようなタイムは無理だし、全国公も無理で、七帝が最後になるだろうけど、自分なりに何か終わりを作ろう、と自分の中でようやく気持ちの整理ができました。
次の関国はベストこそ出せず、50Frは29.1とタイムも悪かったですが、久々に体が動いた感覚があり、100Frはベスト+0.3で、タイムこそ悪いですが、久々にベストに近い値で、本当に久々にプラス寄りの気持ちで終えられた大会でした。
そして、迎えた最後の七帝は50Frが28.33でベスト+0.32、100Frは1'04.92でベスト+0.04←???、ベストこそ出せませんでしたが、最後までやり切りはしたはずです。
関チャからだけで見れば、結構上がってますし。
絶対的な結果こそ悪かったてすが、この2レースが体育会で頑張った2年間、ひいては水泳生活3年間の集大成だと言える内容だったと思います。
振り返って、2年間でやったことと言えば、自分で自分の身体を壊して、散らかして、自分で拾っただけです。
50Frだけで見るなら、体育会で過ごした2年間の大半が停滞か悪化でした。
全体を通して、反省点を挙げるならば、練習が目的になってしまったことが一番よくなかったと思います。
練習は前に進むためのものなのに、その場でじたばたするために使ってしまいました。それは泳ぎでも同じで、前に進むために腕を回して、足を動かさないといけなかったのに、回すことや動かすことが目的になってしまって技術の向上に活かせなかったです。
また、特に3回の春ごろから少しずつ下り坂に入った時に練習が足りない、もっと、と判断したのもよくなかったです。
今まで自分が多少なりともまともな結果を出せたのが受験だけだったために、体調が悪くなるまでとにかく頑張るしか手札がありませんでした。
その頑張り方もいつも中途半端で、結局やってる風になってしまうので、自分にはそもそもいい結果を出すために努力をするのは向いていない気がします。
4回の夏ごろから無理やりメリハリをつけて練習に取り組むようにしましたが、最初からこの意識で取り組めていたら、と思ってしまいます。
練習の中で、レースより短い距離でレースより速く泳いでいかないと進歩しないはずなのに、すぐにそのことを忘れて中途半端な練習をしてしまいました。
練習全体は多少は速くなりましたが、トップスピードが遅くなってしまっては意味がありません。本番の80~90%の泳ぎが上手くなってもレースには直結しないはずなのに。
水泳への取り組み方だけではなく、勉強も絵もやろうとして中途半端になってしまったのもよくなかったです。
二兎追う者は一兎を得ず、とは言いますが、三兎を追おうとして、勉強は0.3兎、絵は0.6兎、水泳は-0.9兎くらいだったので、足し引き0兎でちゃんとことわざ通りです。
何かに取り組む際に、よく言えば逃げ道、悪く言えば言い訳を作るのは気持ち的には楽にはなりますが、大成するには好ましくはないのかなと思います。
頑張ってる風、頑張ってるつもりを頑張るのは結構ですが、結果に繋がらないと意味がないですし、全部捨てて1個に取り組む狂気や執着が欲しい人生でした。
ただ、そもそもどう工夫しても、自分には体育会の練習は耐えられなかったように思います。
思えばこの2年間で多少なりともまともに動けていた期間は、2回の11月に膝を怪我して練習のボリュームや強度を減らさざるを得なかった期間と、4回の最後に無理矢理メリハリをつけようとした期間だけで、そもそも練習全部頑張る、筋トレも頑張る、みたいな心持ち自体にも無理がありました。
大前提として、昔からとにかく体が弱かったわけですし。
サボりまくればよかったのか、と問いたくなりますが、それなら入部しなくていいですし、性格的にもそれはできなかったかなと思います。
もう一度大学の最初からやり直しても、その時々同じように考えたはずですし、その当時はそれが最善だと思っていたので、全て嘆いても仕方がないことです。
自分の性格、生まれ持ったもの、これまでの人生で培った身体では、厳しかったんだと思います。
ただ、よりレベルの高い環境で努力すれば向上すると考えるのは自然だと思うので、初めからこの結果は決まっていたのかもしれません。
最初にそこそこの順調さがあったために、期待してしまったのが悪いといえば悪いです。
ただこれを言ってしまうとおしまいな気がします。
何事も勝手に期待をするから、裏切られて、腹が立って嫌な気持ちになるわけですが、自分の人生にまで期待しなくなってしまうのはどうなのか、僕にはまだわかりません。
自分のことはともかく、周りの人たちにはとにかく申し訳なさでいっぱいの2年間でした。
レースが終わるたびにうなだれてラップ帳と動画をもらいに行き、ラップ帳で気を使って言葉を書いてくれたマネさんたち、
パートリーダーであれば点数に絡めなくてもせめてもっとベストをばしばし出して、パートを活気づけないといけなかったのに、ベストも出せず、ネガティブオーラを出しまくりながらpMTGをしてしまったFr shortの皆さん、
体育会に入る前に、頑張ってこい、きっと速くなると、送り出してくれた医水の同期や先輩たち。
トレーナーの人達も含め、スタッフの皆さんが早起きしていつも練習をサポートしてくれたのは、選手がいい結果を出すためなのに、僕は全く応えることができず、情けない限りです。
練習もまともに参加できず、頑張れず、ベストも出せず、部全体にも申し訳なかったです。
そうした申し訳なさと後悔と同時に、こうして晴れやかに?引退日記を書くまで漕ぎつけたのも周りの人たちのおかげです。
とにかく申し訳ない、自分はここにいてはいけない、と思い続けた2年間でしたが、七帝の点数や何か制限がかかっているわけでもない、最初の方の組の誰も見てないようなレースで、みんなにたくさん頑張ってこいと言ってもらえて、たくさん応援してもらって、苦しいことばかりだった2年間が少しだけ救われたような気がしました。
自分の取り組んでいることに対して、大勢にあんなにも面と向かってまっすぐに応援してもらえたのは初めてで、最後まで精一杯泳ぐことができました。
最後がベスト+0.04というのも、中途半端な僕らしいと言えば僕らしいかなと思います。
そもそものベストが遅すぎますし、自分で落とした分を1年かけて戻しかけただけですから、別に惜しくもないですし、大前提ベストでも褒められたものではないですが。
ともかく。ラストレースで本当にいい思いをさせてもらいました。ありがとうございました。
もちろん、ありがたかったのは最後の七帝だけではありません。
自分の水泳という側面では上手く行かないことばかりでも、部活動としてはこれ以上なく充実したありがたい2年間でした。
ほぼ毎日顔を合わせて、しんどい練習をして、みんなのレースを見て、いい結果が出たら自分がベスト出てない分嬉しかったです。
週5,6で練習が当たり前にできる場所があって、スタッフの人達が毎日たくさん来てサポートしてくれて、大人数で一緒に練習を頑張って高め合えるこの環境は、決して当たり前ではなかったと思います。
練習終わりはすぐに帰っていましたし、遊びにもほとんど行かなかったので私生活では参加できませんでしたが、たまのイベント事でみんなが楽しそうにしているのを見るのが好きでした。
こうした部活動に打ち込めたこと自体、自分はかなり恵まれていたと思います。
入部する前もそう思っていましたが、それが更に2年間伸びてありがたいことです。
この2年間、水泳と、勉強と、少しのお絵かきしかしてないので、記憶はほとんど水泳部と過ごした日々です。
先ほどたくさんの申し訳ないを書きましたが、それ以上に感謝でいっぱいです。
全員がそうは思っていないかもしれませんが、僕たちは一応は京都大学なわけで、勉強と水泳とどちらが本業かと言われれば、それは勉強だと思います。
人生の様々な側面でプラスになるとはいえ、必ずしも生きるために必要ではなく、周りの大学生が遊んでいる中、多くのリソースを割いて部活動に取り組むというのは中高以上に何か価値があるものだと僕は信じています。
部活動にはたくさんの時間とお金がかかりますし、ある程度生活の心配をすることなく、部活動に打ち込めたのは本当にありがたいことです。
学生という立場で、部活動をして、スポーツに打ち込むのは大学が最後ですし、その最後の部活動をこの水泳部で終えることができて幸せです。
結果こそ散々でしたし、どう理由付けをしようとしてもやっぱり悔しいですが、とにかく何とか最後までやり切ったことには、これから先何かしら意味が生まれてくると思いたいです。
僕は水泳の面では全く実力を伸ばせず、足踏みし続けた2年間でしたから、後輩たちには足踏みせずにどこまでも速くなってもらいたいです。
特に隅っこのレーンで一緒にくねくねしてくれたみんな、頑張ってください。
2年かけて全然伸びないロールモデルを作ってしまったのは申し訳ないですが、皆さんなら僕みたいにならずに速くなれると思います。
1年はあっという間ですし、水泳以外にもやらないといけないことがたくさんあってしんどいとは思いますが、きっと何とかなります。
僕はまだ2年間は学生をさせてもらえますし、京都にもいますから、大会で速くなっているところを見られるのを楽しみにしてます。
僕自身、4月頃は早く水泳をやめて筋トレだけしたい、と思っていましたが、今はもう少し水泳に関わろうと思えたので、これから筋トレと少しの水泳をしていきたいです。
また、本当は日常生活でも下回生をごはんや遊びに誘えればよかったんでしょうが、特に3回後期は人と喋る気が起きないくらい疲れていましたし、そんな中話させても申し訳ないなと思ってなかなか誘えませんでした。
ここからは少し時間もメンタルも余裕ができたので、ご飯でもなんでも行きましょう。しんどくない範囲で。
自分から誘うの得意じゃないので、言いにくいかもしれませんが、声をかけてくれるとありがたいです。
また、3か月に1回くらい練習にも参加させてもらえるとありがたいです。邪険に扱わないでください。
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
この3年間、水泳で関わってくださったすべての方々に感謝しています。ありがとうございました。
後輩たちのこれからの水泳部生活がより輝くことを願っています。
本当にありがとうございました。
2024→2025 Stardom
2025→2026 轟