(将来性のないところが理学部のいいところだと思います。)
この時期から部活を引退した人たちが放課後教室に残りだしたので、家に帰って勉強するようになりました。
受験が迫って周りがピリつきだすのとか、成績を比較するのも、されるのもあまり好きではなかったし、
なぜか周囲の人から買い被られることが多く、面倒だったので
一人で勉強する方が気楽だったし、好きでした。
高三の夏に水泳を引退しました。
怪我もあってあまり納得のいく結果ではありませんでした。
そのせいか、あるいはただの怠惰か、引退した後も受験勉強に気持ちを切り替えることができず、あまり勉強していませんでした。
いつか本気を出すだろうと思っているうちに共通テストを迎えました。
結果は8割弱。
地理が6割程度しかなく、農学部換算だと8割いっていません。
共テリサーチもD判定だったと思います。
ただ兄も浪人していたし、学校も浪人率が高く、浪人に抵抗がなかったので私立は受けず、そのまま京大農学部に出願しました。
結果は不合格。
そりゃそうだなという感じで、あまり悲しくはありませんでしたが、努力不足ゆえの不合格であることは明らかだったので、周りの人への申し訳なさはありました。
予備校は友人が行くと言っていたので河合塾水戸校にしました。
ただその友人は後期受験した大学の追加合格が決まったので結局一人で行くことになりました。
合格まであと数点だったので、このまま京大志望でいくと怠けるだろうと思い、志望校を東大に変更しました。
自分がいた東大・京大理系コースには同じ高校の人はいましたが、特別仲がいいわけではなかったし、女子も一人だったので、1年間だいたい一人で勉強しました。
はじめの頃は授業が終わっても予備校に残って勉強していましたが、なぜかいつも近くに座ってくる人がいて鬱陶しかったので、家に帰って勉強するようになりました。
勉強時間は4月から2月までずっと大体5〜8時間。
全く勉強しない日が続くこともありませんでしたが、10時間以上勉強する日もそんなに多くはありませんでした。
夏の冠模試で東大がCよりのB判定、京大がA判定。
2浪は嫌で、受かる自信があるところを受験したかったし、志望校を変えるなら夏までだと思っていたのでここで志望校を京大理学部に変えました。
志望校を変えた後は一ヶ月に一点あげれば受かると思っていたので、気楽に勉強しました。
そんな感じで共通テストを迎えて結果は9割くらい。
1年間真面目に勉強した地理は6割くらいでした。
どうやら地理は勉強不足ではなく、単に苦手だったことが分かり良かったです。
そのまま京大理学部に出願しました。
私立は東京理科大と慶應、後期は兄が住んでおり宿泊代が浮くということで北大に出願しました。
二次試験前日、京都に行く新幹線で慶應の合格を知り、2浪は回避できることが判明したので二次試験はあまり緊張せずに解けました。
終わった後はずっと散歩したりしてました。
合格しているだろうと思っていたので後期の勉強はやる気が起きず、していなかったです。
京大の合格がわかった時は、嬉しいというよりは安心って感じでした。
以下現役と浪人期の開示得点です。
(現役の時の得点はハガキを紛失してしまったので記憶にある範囲で書きます)
現役
共通テスト
合計 8割弱
地理 64点
二次
国語 7割
英語 5割
数学 3割
理科 4割
浪人
共通テスト
国語 184/200
地理 65/100
数学 187/200
外国語 189/200
理科 184/200
情報 92/100
二次
国語 59/100
数学 125/200
理科 139/200
外国語 115/150
こんな感じで受験は終わりました。
自分は合格して感極まれるほど受験に熱量を注げることができた身ではないし、人間関係とかも面倒になる前に距離を置いてしまいがちなので、受験や高校までの学生生活に対してそこまで深く悩むこともなかったし、強い思い入れもありません。
他の人の合格体験記を読むと、真剣に物事に打ち込める姿に羨ましさも感じますが、案外これまでの生活に満足していますし、今が楽しいので後悔はあまりしていません。
唯一の後悔は、浪人して親に迷惑をかけたことくらいです。
志望校とか、勉強をどれくらい頑張るかとか、人間関係を一旦断ち切るかどうかとか、受験期に迫られる様々な選択に対して、何が良いかは全部人によりけりだと思うので何のアドバイスもできませんが、まあどんな選択したとしてもなんだかんだその後の行動である程度はどうにかなると思います、多分。
全てが曖昧ですみません。
質問に答えます。
勝負メシ
水泳の大会の前日は肉うどんを食べることが多かった気がします。
そのほかのイベント当日や前日は母が作ったラザニアをよく食べていました。美味しいので。
次の日記は明日当てます。
質問も後で考えます。
明日が二次試験ということでこの日記を読んでる受験生などいないと思いますが、 皆さんが納得のいく結果で受験を終えられるよう応援しています。
2025-2026 轟
今から話すことは本当に誰にも話したことがないです。高校の体験記にも書いてません。ここで書くのは少し緊張しますが、見ているのがつらくなったらやめて頂いて。
合格体験記の長さとか濃さをとやかく言う人は割といますが、これは受験に人生をかけた度とか占めた度を表していると個人的に思っているので、人それぞれでいいと思っています。
事実、受験は人生のたかが一部ではあるので、精神衛生上では、簡潔なほうがいいとさえ思ってしまいます。
ただ、自分は人生がかかっていたので、濃いかはわかりませんが、長くなります。史上最長の日記を作ってやろうと思い、気合い入れて書きやした。最後確かめで読むのに13分ほどかかりました。
たまには味変で真っ黒い日記でもいいのかも。
下のは、生活リズムと受験期にやった勉強とその結果のみを高校卒業時に自分に酔ってる勢いでまとめたものなので、受験生はこれを見ればいいかな。最後らへんに模試結果の推移みたいなのを乗せてます。
https://1drv.ms/b/c/5325a7afaf9645f7/IQA4NmBtIdKFRIh7h2ipmhBcAbY8xQdmUA4_nQ-iQ-IZg3Q?e=bCLCXN
ちなみに高2の弟からはこのような評価でした。普通に皆さん見なくていいと思います。 入試の点数だけ、貼っておきます。
ここでは、気持ちの面だけにフォーカスを入れてみました。
① 幼少期
そもそも、僕が大学受験にここまで執着した理由は、育った環境に割と関連しています。ここに書いてあることは小中だけのことだから、今はちゃいます。
小さい頃から、僕は承認欲求が異常に強い子どもでした。
人にかまってほしい。見てほしい。応援してほしい。認めてほしい。
そして、自分のことが大好きで、負けず嫌いで、プライドが高い。自分より優れてる人を見ても、自分はこっちのほうだったら優れてる、と虚勢を張るような子。
何より、誰かにとって特別でありたいと思っていました。
とりわけ好きなものは生まれてこの方あまりなく、人に認められることとか、自分の頑張りで誰かが笑顔になることが何よりの生きがいであり、生きている意味でした。
父は仕事でほとんど家にいませんでした。(ただ、休みは一緒に遊んでくれました。大好きな父親。)
だから、ほぼ家は、母と、2つ下の弟と僕の3人。ただ、高2くらいまで弟には嫌われていて、近づいただけで発狂されてしまっていたので、たまに共通のおもろい番組があった時に笑いあう(弟からしたら『てしまう』)くらいな感じでした。
両親はともに高卒で、勉強だとかには無縁の普通の家庭でした。
小学校低学年までは、平穏な家族だったと思います。転機は、僕が競技水泳を始めたことでした。
きっかけはスカウトです。「すごい」と言われるのが気持ちよかった。それだけです。泳ぐのは嫌いじゃなかったけど、好きだったわけではない。
親の方針は、「やる気があって努力しているなら、親の義務として応援する」。だから、やらせてもらいました。
母は、本当に大変だったと思います。
毎日の送迎、食事管理、大会の付き添い。弟とは違う生活リズム。
自分は、水泳が本当にしんどくて自分のことで精いっぱいで、親への感謝の気持ちも忘れていってしまいます。
それがよくなかったのかはわかりませんが、そこから親子関係は悪化の一途をたどっていきます。
母から向けられた言葉は、いつも僕の足りなさを指摘するものでした。人と比べて、自分を下げる言葉でした。
努力が足りない、根性がない、人間的に欠陥がある。だから本当は周りに嫌われている、お前はだめなんだ、と。
弟のほうが出来が悪いから、と、弟のことはちょっとしたことでほめて、自分はどれだけやっても良い結果には無関心。
それらは叱咤というよりも、僕という存在そのものを評価する言葉に聞こえていました。
僕はそのままで肯定される存在ではなく、常に矯正されるべきものでした。
うまくいかなければ失望され、結果を出さなければ意味がないと言われる。結果を出しても、周りにはもっと上がいる、と言われたり、当たり前だと言わんばかり。
僕は「いるだけでいい存在」ではなく、「期待に届いている間だけ存在を許される存在」だと感じていました。
そして気づけば、「僕でなくてもいいのではないか」という感覚が、心に居座るようになっていました。
褒められた記憶もほとんどありません。京大合格と、高校受験合格のときくらいです。応援されたことも、労われたことも、まあありません。
実際、悪いことで言われることはおおかた正しいので、本当に長所はゼロなんだと思います。
でも親に頼らないと生きていけない年齢でした。家にいるのが苦しくても、逃げられない。
自分は目立ちたがり屋で、たくさん人に囲まれて、人気者になりたかったわけです
小学校までは友達がいました。母の言うように、みんな自分のこといらないんじゃないかと疑心暗鬼になることもたまにありましたが、みんな仲良くしてくれてすごい楽しかったです。
学校が逃げ場でした。
でもそれが中学で崩れます。
中学は学区的に、友達があまりいない状態からのスタートでした。一人は嫌だから、友達を作りたいと思う気持ちが先走ってしまい、そのことばかりに気をとられて、素の自分じゃなくて、優等生で、誰からも慕われる自分を作り出していました。だから、周りからは明るい話せる人ではあったと思う、かな(笑)
部活も行ってなかったし、本当の自分を出せる友達関係というのは、作れませんでした。いつもどこかに気を使っている感じ。ウケをよくしようとして、すごくもやもやというか、居心地が悪い感じ。
自分から話しかけなければ、だれからも話しかけられずにずっと一人で、会話に入ってもスマホも持ってなくって、流行にも疎くて、とりわけ好きなものも、みんなと分かり合える趣味も、部活もスポーツもなくて、こんな薄っぺらい人間、それでいて、人間的な『この人といたい』とおもえる魅力もなくて、話も面白くない、人間的にも終わってる人間なんかと進んで話したい人なんてまあいないわけで、
話してても当たり障りのないことを空気読んで言うだけだから、いたらいたでまあ別にいいみたいな感じ。
小学校からの友達も、2人の時には話すけど、学校に行けばほかの部活の子のとこ行っちゃうかんじで、
まあ、すごい自分が透明人間になったみたいで、苦しかったんですよね。自分が休んでも心配したり気に留める人がいなそうって感じ。
でも、定期試験は学年10位/330人くらいでした。何も勉強せずに。
「これだ」と思いました。勉強なら、認められるかもしれない。
何もない自分も誰かが認めてくれるかもしれない、そう思いました。だから結構自慢しました。これは承認欲求を満たすためです。
それだけならまだ耐えてたかもしれないんですけど、周りの人が、自分より明らかに低い点数でほめられてたり、評価されてた時に、自分のほうが点数高いのに評価されてないのがイライラしちゃって、
自分はこんなにできてるのに誰からも褒めてもらえない。なのにこんな低い点数で評価されていることにすごいむかついちゃったんです。
だから、自分がどれだけできるのかをみんなは知らないんじゃないかと思って、だから、知ってもらえたら、自分も評価してくれるのではないかと思って、自分の点数を誇示する方向に向かってしまったんですよね。
最初はすごいねって言ってくれるんですけど、なんか白々しくて。(あたりまえ)テストの度、会うたびにそれやっちゃうと当然鬱陶しくなるわけで、が、当時はそれが分かっていませんでしたね、意固地になっちゃって。
嫌味な奴、みたいな感じで、嫌われました。
三者面談で、親の前で1時間、自分がどれだけ痛い人間か説明されました。
どうやら、家族にも、友達にも、嫌われているらしい。
家で色々言われ続けて、なんとなく「自分はどこか間違っているのかもしれない」という感覚は、ずっとありました。
でもそれは、まだ曖昧なものというか、嫌っている母一人からのものでしたし、赤の他人に言われたことがなかったので決定的ではなかった。
頼みの綱の勉強まで否定された気がして、その感覚が決定的になりました。
その後の学校生活は、改心したふりして、平気なふりして、過ごしていました。たぶんつらいことが多かったと思います。元担任に株が下がった、なんていわれる始末でしたね。
僕にとって、人の優しさや応援は、無条件のものではありませんでした。
親に認められるには、親が納得するほどの努力を見せ、結果を出す必要がある。
コーチに評価されるには、タイムという結果を出すしかない。
無条件でずっと一緒にいてくれる人はいないと思い込んでいたから、友達と一緒にいるには、何か目に見えるものを提供しなければならない。
優しさは、努力や成果への「対価」。一緒にいてくれるのは、自分に価値がある間だけ、そう思うようになりました。
母からはみんな建前で言わないだけで、本当はお前を嫌っている、と繰り返し言われてましたから、人の笑顔も、応援の言葉も、どこか裏を探してしまう。
あれだけ欲しがっていたものなのに、素直に受け取ることができない。
だから逆に、相手に親切にするのも自分と一緒にいてくれるという一種の見返りを求めてのことだったし、心の底から、この人に良くしてあげたいと思って、してあげるのはマジで限られた人だけだった気がする。
どこにも弱音は吐けない。自分の弱さを隠すことでしか自分を保てない。何か世間的に良いことを達成することでしか、自分を守れない。
ただ、相変わらず世間一般的に見て、水泳は県とか市では入賞できるくらい割とできたほうだったし、勉強も県内偏差値は73近くキープできていました。
そして、そういう勉強ができる、とか大会で『世間的に見て』(というのは、家ではたぶん日本記録出してもねぎらいの言葉一つなかっただろうから、別で定義しておきます。)いい順位をとるということは、世間一般から見て、良いことだということを知っていましたから、自分の意味をそこに見出すしかなかったんですね。
こういうこと全部が積み重なって、いつしか自分には、『絶対的に数値で測れるもので、社会的に認めてもらう』ということしか存在意義が見いだせなくなっていました。何に対しても、数字という軸でしか評価基準を持てなくなってしまいました。
他に自分に何もないから、絶対的な数値で測れるもので誰かになんにも勝てない時とか、負けたって思ったときに、すごい、っていうより自分の価値とかがなくなっていく気がして、胸がギューッと苦しくなってしまうんです。
進路は、地元で1番の公立の進学校で、水泳も強い県立浦和高校を受けました。男子校です。私立の併願もいくつか受けましたが、共学が嫌だったので、行きたくなかったです。
A判定で慢心して、ろくに勉強もせずに、そのせいで超ギリギリ合格しました。
勉強のモチベは人より優れていることなので、それが維持できる程度でしか勉強はしていませんでした。受かった時はプライドが傷つけられなくて安心しましたが、自分は受験本番でやらかすタイプだとわかったので、この経験が大学受験への謙虚な立ち向かい方につながりました。
② 高校
高校に入って、生活は一変しました。
まず、水泳が部活にかわったことで、親にお願いして続けさせてもらっているわけではなくなりました。そして、恩師の顧問の先生と出会い、人間的にも、競技人としても成長でき、タイムも劇伸びしました。水泳という競技の面白さにも気づいていきます。
また、先ほどの生活を送っていたため、親とは朝晩15分ずつくらいしか顔を合わせなくなりました。親と最低限しか関わらないという選択肢ができて、自分の精神はだいぶ落ち着いていきました。
お互いにストレスが減り、世間話くらいは軽くできるようにはなりましたし、心から、日々の感謝を伝えられるようになりました。(ただ、今でも帰省とかで一緒にいるのは1,2日が限界ですな。)
それに加えて、何より充実していて楽しかったです。
毎月クラス単位の大きな行事があって、部活があって、みんなが同じ方向を向いて頑張るっていうことが増えていきました。誰にでも唯一無二の役割があって、長所を見つけられて、みんなから必要とされることもかなり増えました。一体感、それも、自分がその輪を構成している一部分である一体感を味わえました。
自分の存在意義を疑うことは明らかに減っていきました。
クラスや部活で過ごす時間が生活の大半を占め、気のおけない友達ができました。
何も言わなくても一緒にいてくれる人。多少迷惑をかけても離れていかない人。無理に優等生でいなくてもいい関係。こいつには負けたくないとお互いに思っているライバル。
久しぶりに「素」でいられる感覚になりました。
その意味で、高校で関わった人は自分にとっての宝物です。
でも、不安は完全には消えませんでした。
仲良くなればなるほど、「いつか嫌われるんじゃないか」「失望されるんじゃないか」「本当は嫌だけど、しぶしぶ友達付き合いしてくれてるのではないか」とたまに考えてしまう。
それでも、高校時代は本当に救いでした。
高校同期は一生ものです。
⸻
② 勉強を頑張った理由 、京大を目指した理由
~ここまでの話は、自分の受験を話すにあたって話しておこうとおもったことです。ここからが本番です。~
正直に言えば、僕は知的好奇心で勉強していたわけではありません。生き延びるためでした。人間的な存在価値はないから、生きててもいいと思うためには、社会的に最強の価値を手に入れるしかない、と思っていました。
偏差値、順位、合格不合格。努力がそのまま数字になる世界。
これほどわかりやすく、自分の存在意義を示せるものはなかった。
水泳で、インハイやJOに出場し、さらに半年の勉強で現役で難関大に受かる。
それができれば、「自分にしかない肩書」になると思いました。
肩書きがあれば、社会的に価値があると証明できる。少なくとも、否定されることはない。
偏差値が高ければ安心し、下がれば自分の価値まで崩れる。大学に落ちれば、自分には何も残らない。必要とされない人間になる。それは精神的に“消える”のと同じだと思っていました。
だから本気になれました。超過密生活でも折れなかったのは、これを失えば自分が成り立たなくなると本気で思っていたからです。受験期にモチベーション不良になることはなかったです。
僕の中で受験は、きれいな動機である必要はありませんでした。
心が直接結果を生むわけではない。でも心は行動を生み、行動だけが結果を生む。受験はそういう構造だと考えていました。
一方で、高校では気を許せる友人ができて初めて、入試の点数を通して「自分は凡人だ」と受け入れられました。
勉強では劣っていても、たとえば水泳では上回る部分がある。どこかに自分の目に見える強みがあると実感できたことは、支えになっていたのだと思います。
志望に関して、身近に大学を具体的に語れる人がいなかったこともあり、将来像よりも“肩書き”が先にありました。
最初は周りの流れで東大志望と書き、現実的には早慶以上、いわゆる高学歴と呼ばれる場所に行きたいと思っていました。
そのままのらりくらりと、将来について何も持たないまま高3の6月まで来てしまいまして、そのまま何となく東大受けるんだろうなと思っていました。
しかし、たまたま見たYouTubeショートで京大のタテカンとか、そういう面白い文化を見て、浦高に似てる感じがしておもろいな、と思って、まあそのままスルーしようとしたんですけど、
あれ、ここ受ければいいんじゃね?と思い至って、そこからはもう京大しか見えませんでしたね。
親を説得するために志望理由とかいろいろ考えました。調べれば調べるほど、京大でした。
しっかり親に説明したところ、快諾していただけたので、目指すことにしました。なぜか父は元々京大を推していたので、すごい喜んでましたな。
選んだ学科は、一番興味がある分野でした。そのきっかけは、中学の頃に見たドラマでした。専門的なことを扱い、周囲から頼られている姿がかっこよく見えたんですよね。
なんかアニメとかドラマとかで機械とかそういうのできる人って救世主的なのになりがちじゃないですか。そうゆうのできる人って割と唯一無二だから、こういう人はきっと必要とされる、そう思いました。
とりあえず、自分は人格が終わってると思ってたし、対人関係はしんどいことが多かったので、そういうのが関係なくて、好きじゃないけど、取り柄の勉強系が生かせる職業に進むしかないというのは中学校の時から一貫して思ってて、それに就けるほど賢いとこ行こうとも思ってました。
情けないと思いますが、それが本音です。
高校は全体の半分が浪人するようなとこです。
人には受かるとか言って落ちたら恥ずかしいから、たぶん浪人する、とか言ってましたし、実際落ちたら浪人なんだろうなあと他人事のように思ってましたけど、落ちたら自分は死んでしまうので(笑)、自分に落ちる可能性とかそういうのを認めたくなくて、落ちることとか、その後の世界を想像することは怖くてできなかったです。
落ちても受かっても、受験後の人生があることが信じられなかったですな。
その割になんで、滑り止め私立受けなかったのかは不思議です。完璧主義だから、自分の肩書に対して妥協したくなかったのかも。
担任に、『去年東大に受かったやつ(20人ちょい)は全員東大一本だった』と言われたことと、伝統的に現役は一本みたいな風習があって、そういうもんだと思いこんでいたからだと思います。共テ利用は出すか迷ってたら出願期限が過ぎてました。一般もそうだったかな、忘れました。
工学部の出願学科を2つ書けるのに単願にしたのも謎です。理由は、行きたくない学科で嫌いな勉強をしたくない。オープンキャンパスの面談みたいなので、自分の憧れ像を言ったときに物工、情報はちょっと違うかな、と言われたことかなあ。
ただ最近、専門で、設計したものを思い通りに動かすことはおもろいと感じてるので、当たりくじ引いたと思っています。母はそこらへんも見抜いていたのかもしれませんな。
当時も今も、勉強はするなら極力苦痛でないモノがいいとは思ってます。
⸻
⑤ 実際の受験
詳しくは冒頭の通りです。
部活はjoで過去最高順位を更新し(16位)、満足して引退できたため、翌日からは猛勉強できました。
僕の受験は高校の教室で完結します。
朝から下校時間の夜9時まで、1日も絶やさず学校に来て勉強しました。
学校に行けば、クラスの固定メンツがいて、そんな環境で、頑張っていました。
みんな常に上を見て頑張っていて、いろいろな刺激をもらって、俺も負けてられないと思って頑張りました。いくら自分でも、突発的にすべて投げ出したくなることも何度かありましたが、耐えれたのは仲間のおかげです。
小さいころからの教育のおかげで、自分が本心からやらなきゃいけないと思いこめば、とことんそれだけに集中して、完璧を目指そうとして、一種の強迫観念みたいに自分を追い込めるのは受験に大きく生きてきました。
塾には通っていませんでした。何をやるかは、全部自分で決めました。部活を引退してからの半年間に勉強した量も質もだれにも負けません。
その際、水泳で学んだ逆算思考が役立ちました。京大の問題はこんな感じで、それに受かるには何が必要か。どこまで到達すればいいか。
わからないところは、頭のいい友人に聞きに行きました。そのたびに快く教えてくれて、感謝しかありません。
また、8月末まで同じ部活でインハイまで行った友達が2人いて心強かったです。
9月の文化祭、11月の50キロマラソン、12月のラグビー大会、学校行事にも全力で取り組みました。
あっという間に、共テが終わり、2次の出発日前日、今までやった参考書を積み上げたら、1mくらいになって、感慨深かったですね。
同時にこれでしくじったらという怖さと、絶対やったるという気持ちでいました。
試験当日も、そんな気持ちでした。
レース朝のルーチンで、5時起き、シャワー、散歩兼ダイナミックストレッチ。思考がすっきり、調子は仕上がってる。さすがにテーパーの技術は1流やな。
会場入りしたときはさすがに緊張してました。
ただ、18歳にもなって親に付き添われてないと入試にも来れない人とか、直前まで友達とべらべらしゃべって、緊張感のかけらもない、何の覚悟もなさそうな人たちとか、きょどきょど、おどおどしてる人とか、
こうゆう人見て、自分のコンプレックスがめっちゃ刺激されたからなのか、こうゆう人が自分と同じ大学を受けるってことに関してなのか、なぜか腹が立ってきちゃって、
こんな奴らには絶対負けない、背負ってるもんがちゃうんやこっちは!と割と強気でした。
1日目は国語解けて気持ちい。昼休みは外でダイナミックストレッチしながら、せかきょう。数学解けて気持ちい。
周りの声が入らんように、テスト終わったらすぐイヤホンして一人になってました。
しかし、入試2日目の朝、無理して理科の3時間に耐えれる量のごはんを食べたところ、嘔吐しました。お久しぶりでした。
レースとか、何かかかってて緊張する時は、マジで何ものどを通らなくて、レースの朝も、30分くらいかけてコンビニおにぎりサイズのコメとサラダと漬物を食べるんす。だから、無理やり詰め込もうとしたら、ダメでしたね。精神病ですな。
だけど小学生の時は練習のたびに、レースのたびに嘔吐してたので、リセットすっきりして、逆にいつも通り会場に向かえました。2日目も無事終わり、天に祈れるくらいの手ごたえではありました。
「ここまでやった自分を落とすなら、日本もおしまいやな」
本気でそう思えました。
⸻
⑥ 合格しても
合格しました。発狂するほどうれしかったです。祝福されました。父は泣いて喜んでくれたそうです。
肩書きが手に入りましたし、京都での新生活にも心躍りました。
でも、心は変わりませんでした。
大学来てしばらくは、「自分なんていてもいなくてもいいのかも」という感覚は残ったままでしたし、
この大学には文武両道な人、優秀な人ばっかで、それがスタンダードだから、そうゆうのもあって精神的に不安定なことも多かった気がします。
⸻
⑦ 受験生に伝えたいこと
勉強に関しては、モチベーションは何でもいい。承認欲求でも、悔しさでも、怒りでもいい。それが行動になるなら、意味がある。
部活に関しては、未練がなくなるまで、やりきるのがよいと思います。勉強するために高2まで、と完全に決めていたならそれでもいいだろうし、最後までやりきろうと決めていたなら、そうしたほうがいいと思います。自分の中で部活に区切りをつけられることが大事です。そうすればスパッと勉強にシフトできます。
ただ、高2でやめるのは高3まで続けるという選択肢が残っている以上、未練は残りやすいと思うのでハードルは高いと思います。みんなそうならやりやすいかも。
一番ダメなのは、中途半端な理由、勉強がやばくなって「きたから」とか、でやめるのは絶対に良くないです。後悔が残るとかいう精神論ではなく、うまく勉強にシフトできないからです。ずっとタラレバが付きまとって結局続けたとしても勉強時間とか成績の伸びも変わんなくね?続ければよかった~なんてことになりかねません。
僕からもわかるように、勉強を積み重ねてれば、当日はどんな状況でも、割といけるんです。
厳しいことを言うけど、当日緊張で、、、とかは、緊張する状況を練習できてなかったという練習不足のせいです。行動が足りなかっただけです。
自分はプライドのために模試とか過去問演習でも高得点をとる必要があるので、本番と同じくらい緊張した状態で臨んでいましたし、水泳でも何度もそんな状況で120パーの力を出し続けてきました。当日にコンディションを合わせるのも水泳で何度もしてきたことだし。
逆に勘というのも、人生で培ってきた統計的にこれが正しい可能性が高い、というものですから、実力です。
だから、入試は今までの人生なんです。だから、どんな状態でもいいんです。テストを受ける前に結果はすべて出てます。
受験生に一言添えるとしたら、
残りの数日間もその人生の一部です。だから最後までやれることを着々とやってください。そして、ちゃんと会場に受けに行ってください。そうすればおのずと結果が付いてきます。安心してください。
プラスに働く運はあっても、マイナスに働く運はない!
これは合格体験記であるから、ここまででもいいと思うんですけど、
でも、もう一つだけ。受験に関係のないことを。
数字にとらわれて生きていくというのは、常にもっと最善の方法があるかな、とかばかり考えて、考えて考えて、誰かに越されないかなということを気にして、自分のやり方を疑い続けて、ずっと気を張り詰めておかないといけないから、ずっと戦闘状態みたいな感じで、中々にしんどいんです。
そういうことばかり考えるのをやめたいと思っても、上に行くための思考を放棄した瞬間に、数字にしか価値を見出せない自分は死んでしまうので、考えるしかない。
受験の時はそれでいいと思いますし、そういう人が確かに強いと思います。
ただ、長い人生で見たときに、あまりに希望がなさすぎる。
だから、数字では測れない部分、周りの人がどうであっても、世界がどうなっても、変わらない自分の中の強みとか生きる理由を見つけたい、と大学に入ってから思い始めまして。
趣味とか、人の評価とか関係なしに熱中できることとかがある人とか、毎日が楽しく過ごせればいいって言う人は全然いいし、個人的に超羨ましいんですけど、自分みたいに評価にかかわらない趣味とか興味がわくものがない人とか、今まで、自分のやることなすこと否定されてきて、自分の考えとは違う『正解』を押し付けられてきて、はなから何に対しても行動を起こす気力もわかない人も、受験生のなかにはいると思います。
まだ、さっきの答えを見つけられたわけではありません。
でも、ひとつ気づいたことがあります。
自分はずっと数字で自分を測ってきましたが、人との関係は、数字とは別の見えない軸で成り立っているということです。
誠実であろうとすること、目の前の人を大切にすること。
それは偏差値のように可視化はされないけれど、確かに積み重なっていくものだと思うようになりました。
これまでも、学校でそういうことを教わってきましたけど、切実に実感できるようになれたのは、出会ってきた人のおかげです。
だから、そういう、自分と一緒にいてくれる人を大切にしてください。
自分の良いところも悪いところも知った上で、それでも隣にいてくれる人。自分の負の部分を忘れさせてくれる人。
今の僕を作っているのは、間違いなく、そういった人たちの温かさです。肩書きとか、入試の結果なんかよりも、その存在の方が本当に大きいです。
いつか自分を見失ったときに助けてくれるのはそういった人たちです。
一人では決して見られない景色、楽しさを見せてくれるのは、そういった人たちです。
相手に、そして自分自身に誠実であれば、そういった人は必ず現れると思いますよ。
僕はまだ、自分をそのまま肯定できていませんし、人とすぐ比べちゃう癖もそう簡単になおるものではありません。しかし、自分自身に価値は見出せなくても、そんな自分と一緒にいてくれる人がたくさんいるってことが、今の自分の数値では測れない本当の価値だと思っています。
数字にこだわり続けて、もがき苦しんだ先にあったのは、人のやさしさだったわけです。それが中高の受験戦争を乗り越えてわかったことですな。
(そんな仲間が体育会水泳部にはたくさんいますよ~)
その意味で題名は、人事を尽くして人命を待つ。今の自分を作っている一番のささえは、一時の天運なんかではなく、周りの人との関係ですから。
受験とは関係なくてすみません。関係ありだったら、「薄暗い森から」みたいな感じになってたんでそれよりはましやな。
まあ、こんなカスみたいな理由でも、やることやってれば受かるってことを知ってくれればいいです。書くの疲れました。
質問は受験期の娯楽です。アレです。
明日は大トリのりおです。楽しみです。
質問は、勝負メシ、で。
2025-2026 轟
お疲れ様です。
バイト休みでいいとなったのでダラダラしていたら、再度招集がかかったので一瞬で書きます。
無事、基礎鍛錬期を終えました加茂です。
合宿前に髪の毛を黒く染めて行ったのですが、入水時間が長く、もう色が落ちてきました。
合宿についてですが、時間がないので省いて。
なにかしらチームに還元できたらと思っているので、機会があれば情報共有をさせていただきます。
それではメニューです。
メニュー係のゆうせいさん、スタッフさんありがとうございます。
この日はバック、ブレを中心に合宿の振り返りをしました。最後の方にスピード出す練習もあったのでちょうど良かったです。
それでは今回は合格体験記ということなので、時系列に沿って出来事などを書いていきたいと思います。
とはいっても振り返ってみると水泳中心の生活すぎて内容が薄いので、水泳の話も交えながら進めていきます。
まずは小さいころ
保育園では園内にあった公文に通っていました。公文の記憶はあまりないですが、公文組はお歌の時間に抜けて行くということだけは覚えています。この頃はJSSに通っていたそうです。それもあまり記憶にないです。
〇小学校
小学校では、水泳、ピアノ、そろばん、キックベース、アスリートクラブに通っていました。学校が終わった後に遊ぶということはあまりなく、毎日スイミングに行ってました。勉強はできた方なのかと思いますが、周りに中学受験する人がたくさんいてその人たちは別物だと感じていました。この頃はまさか自分が中学受験をすることになるなど微塵も思っていませんでした。
そして卒業が近づいてきた小6の12月、なぜか親が中学受験する??と聞いてきました。あと一か月しかありません。私は近大に受験なしで進めると聞いてチャレンジしてみることにしました。そこからはスイミングの回数を減らして、その時間を勉強にあてはじめました。YouTubeでつるかめ算とかを勉強したり、時事問題をインプットしたりして受験に挑みました。なんせ時間がなかったので過去問はほとんどできませんでしたが、小学校の授業をちゃんと聞いていたので上のコースに合格することができました。
〇中学校
無事、中受に合格したため、6年間の近大生活が始まりました。周りはみんなはとても賢いと思っていましたが、意外とそんなことはなく上位にいることができました。しかし中高一貫なので英語、数学以外はほとんどほったらかしで遊んでいました。朝早く学校に行って友達とバスケをし、授業中は一人一台のiPadを使って友達と会話していました。水泳も小5でJOに出てから全然伸びず、ただ練習をこなす日々でした。
このようにまんまと中高一貫の落とし穴にはまってしまいましたが、なんとか成績トップで卒業することができました。大阪府知事賞というものをもらいました。
〇高校
高校に入り、水泳部に入りました。近大の監督の指導により、練習をはじめて2か月で大ベストが出ました。そこから急に水泳が楽しくなり、毎日練習に行くようになりました。そのまた2か月後にはインハイ、インカレのタイムを突破し大阪で2番になることができました。この時期はほとんど勉強をせず、水泳中心の生活を送っていました。高1で受けた模試はすべて志望校を近大にしていたのでA判定でした。偏差値は70前後をうろうろしていました。
そして水泳中心にしすぎた結果、はじめて冬休みの宿題が終わらないという経験をしました。これが高1の1月です。危機感を覚えた私は色々調べて、スタディープラスというアプリを入れました。そこからたくさん参考書を買って自分なりにやってみました。しかし国語の勉強法が分からず成績が伸びそうになかったので、親が駿台予備校に入れてくれました。勉強のスイッチが入り、水泳もシーズンオフだったので練習回数を減らしてひたすら勉強しました。
高2になりそろそろ水泳のシーズンが始まるとなって、今度は逆に水泳への危機感を覚え始めました。4月ごろからはスイッチを変え、練習や身体作りを頑張りました。勉強をする時間がないので、青チャートとLEAPのみに絞ってこれらをすきま時間に完璧にすることを決めました。本格的にシーズンに入ってからは一切勉強をせず水泳だけに集中して、インターハイが終わるまでやりきりました。インハイに出る、2コメで大阪1位になるなど自分的には満足する結果で終えれたので、水泳はいったん休憩。
そこから少しずつ勉強をして高2の冬には京大B判定まできました。英検準1級にも合格し、京大にいけるかも!と思いはじめました。
しかしこの時期から共通テスト模試が始まります。共テ同日模試を受けましたが、まさかの623点。これ1000点満点でですよ??自称進学校ゆえまだ日本史は江戸時代に入っていません。ほとんど解けませんでした。記述模試はできるが、共テ模試は壊滅的という状況に陥ってしまいました。
課題は共通テストだと気づき、そこからとりあえず自分で範囲を進めていきました。並行して英、数、国の二次対策もしっかりしました。
高3になりました。水泳のシーズンが始まるということで少しずつ練習をはじめました。高2の時と違って完全に水泳にシフトすることはできなかったので週に2回、ジムについてるプールで1000メートルぐらい泳いでました。インハイ予選では決勝には残れましたが、インハイの制限タイムには3秒ほど届かずここで引退することになりました。中途半端な結果になることは分かっていましたが、試合に出ず終わるのはあとから後悔すると思って、最後の試合まで出場しました。ラストイヤーでたくさんの思い出をつくることができて、今でも高3で試合にでてよかったと思っています。
完全に引退するとなりましたが、この段階では全国の京大受験生に遅れをとっていることは気づいていました。受験が近づくにつれストレスが大きくなり、あまり学校に行けなくなりました。しかしもう半年もありません。
国語は高1から駿台に通っていましたが、英数は独学だったので、妹が行っている塾に行くことになりました。
バイトの時間が来てしまいました。終わってから続きを書きます。
アップロードが遅くなりすみません。
続き
高3の夏休みが終わるころに妹の塾に入ります。この時期の入塾は受け付けていないそうですが、面談のとき私の目を見て受かりそうだと思ったからという謎の理由で入塾することができました。妹が行ってなかったらこの塾との出会いもなかったので妹のおかげでもあります。塾に入ってからは苦手だった数学の範囲も理解できるようになり、東大など難関大学の問題も少しずつ解けるようになりました。英語も少しずつできるようになる実感がありました。
直前期はストレスで勉強できない日もありましたが、集中できる日に一気に頑張りました。
そして共通テスト本番。
ちなみに本番までの点数一覧です↓
共テ同日 623
高2全統 702
高3全統1回 707
ベネッセ1回 731
高3全統2回 718
ベネッセ2回737
高3全統3回 743
進研パック 754
駿台パック762
Z会パック745
河合パック 806
見てもらえれば分かるように絶望的です。
これだけ見ると大阪公立あたりが妥当でしょう。
私は普通の人と比べて勉強を始めるのが遅かったため最後の最後まで点数が伸び切りませんでした。しかし本番はやるしかないので、自分が会場で一番賢いんだと思い込ませて挑みました。
結果は878点でした。京大受験者の平均ぐらいでしょうか。思っていたよりとれてて嬉しかったです。勝因は模試のときよりしっかり文章を読んだことです。共通テストはしっかり読むと意外とできるので、本番集中できてよかったです。
その後は二次の勉強を一気にして、一週間ぐらいで数学の過去問を終わらせ復習に入りました。数学が満点近くとれるようになってきて国英を始めようとしていたとき、特色の合格発表がありました。
合格していると思っていなかったので、流れ作業のように情報を入力していくと合格していました。最初は信じられませんでしたが、書類などが届き始めて少しづつ実感がわいてきました。
特色入試は普通の受験勉強に使う時間が削られるため、高3の夏ごろ出願するかどうかとても迷いました。
ただ、特色入試は京大を受けるチャンスが2回になるという点で精神的に少し余裕がもてるのではないでしょうか。まあこれは人によると思いますが。
私は行動経済学に関する論文的なものや、国際系のレポートを書いていたので使えるかもと思って出願してみました。インハイ出場や英検準1は加味されているかは分かりませんが、少なくともプラスの事象として評価された部分もあったのではないかと思っています。
私からのアドバイスとしては、少しでも特色入試を受けようかと悩んでいる人は受けるべきだということです。特色で落ちても二次は受けれます。悩んでいるならチャレンジするべきだと思います。
ここまで書きましたが、ただ事実を羅列するだけの日記になってしまいました。
私は決して順当に受かったタイプではありません。スタートも早くなく、最後まで不安は消えませんでした。この合格は、自分の力というよりも、周囲の支えと少しの運に恵まれた部分も大きいと思っています。
なので、偉そうに言えることはあまりありません。
ただ、もし今、間に合わないかもと思って焦っている受験生がいたら、その気持ちを抱えたままでもいいから続けてほしいと思います。
私もずっと不安で、うまく集中できない日ばっかりでしたが、少しづつでも進んでいくことでたまたま結果がついてきました。
模試の点数が悪くても、周りと勉強時間を比べて焦っても、あまりいいことはありません。
あまり参考にならない体験記かもしれませんが、こんな受かり方をした人もいるんだ、くらいに思ってもらえたら十分です。
もしこれを読んだ受験生がいたら頑張ってくだい応援してます。
そして水泳部に入ってください。
以上です。
質問「好きな男性のタイプは?」
特にないです。身長が高いとか、筋肉があるとかはプラスポイントだとは思いますが。
明日はこうだいです。
楽しみです。
2025‐2026 轟