とんだ羽目になってしまったもんですねぇ。
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なあ、お前はこの世界が不条理だと思わないのか?
地を這う蔦が俺の身体を締めつける、俺は血を吐く。でもその血の華やかさに惑わされないで。
地を這う蔦が俺の足元からにじり上がってくる。身体の自由を奪われる恐怖を感じるが、俺は何もできない。目の前にいる彼らも俺の直面する危機に気がついていないようだ。いや、無視しているのかもしれない。その間にもどんどん蔦は俺の身体を締めつける。俺は血を吐く。彼らは笑う。本当に楽しそうに、まるで母親の優しさの中に抱かれ、安心しきった赤ちゃんのように無垢な表情で、笑うんだ。
俺は血を吐く。でもその血の華やかさに惑わされないで。これは彼らの心に静けさを与えるためじゃない。彼らに助けを求めるためだ。いや、目的などない。目的も対象もない、純然たる苦しみの発露だ。金魚の鮮やかな赤色に悲しみを覚え、満開の桜の絢爛さに嘘を見出すように。
しかし、彼らはそれを見落とす。仕方がないから、俺も笑みを顔に貼りつけるけれども、この笑顔の後ろにある苦しみが、苦悶に唸り声をあげ泣きじゃくる俺の姿が見えないのか?これは暗号じゃないのに。解読は不要だ。
蔦に覆い尽くされる身体、光がなくなり、希望がなくなり、存在と非存在の境界がなくなり…
俺は存在を忘却されていた。
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ねじれの位置。俺は世界とねじれの位置にある。どれだけ手を伸ばしても、世界には届きえない。接触の可能性は、予め排除されている。彼らに対して、語る言葉を持たない。しかしこれは傲慢ではない。なぜなら、俺はあらゆる区別と価値の消失を嘆いてから話を始めたいのに、彼らはまるであらゆる区別と価値が実体であるかのような口ぶりだから、こちらは閉口せざるを得ない。閉口するか、道化に走るかである。沈黙か、道化。なんてつまらない奴だ!しかし、あなたが熱意を持って話しているその内容に、私は一度たりとも、いささかも熱意を持ったことがないのです。私はいつも、仮面をつけて擬態したり、あるいは仮面を斜めにずらして声なき声を発し、道化に走ったりしているのだから。
隠れて生きようと思っていたけれど
あなたが
この世界に私を引きずり出すの
圧倒されている
圧倒的な水量に溺れかけている
海の藻屑に成り果てるが⁇
今は沈思黙考の時です。
口を開けば死にますから。
深淵を満たす静かな沈黙に身を委ねて…
私は絶えず生起する意味の群れに身をよじる。精神が持たない。しかし!私を圧殺せんと欲する凶悪なる世界、これに対して私は猛烈な反撃を始める。戦闘、開始。
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「思考の聖徳太子」は土台無理というか、複数のことを同時に考えるというのは不可能なわけです。Aのことを考えてたら、Bが向こうのほうでちらっと覗いていても、Aと同時にBを考えるってのは無理ですね。
そのとき、Bは忘却されているわけです。そのとき、Bの存在は抹消されているわけです。
この世界には存在するけれども、あなたの意識の中では、存在していようが存在していまいがどうでもいいという状態になっているということです。
存在ってなんですか?存在と非存在を判定するのは人間じゃないですか?存在の意味を考え、存在するものを認識するのは人間じゃないですか?人間だけじゃないですか?
そうであるならば、私は私があなたの中に存在していて欲しいのです。自分で自分の存在を確認するだけじゃ、心細いでしょう。
確かに私は生きている限り、無条件に存在します。しかし、それは人間というジャンルの中の匿名的な一人として存在しているだけであって、名前を持った個別具体的な人間として存在しているとは限りません。
私がこの世界でひとりぼっちだとしたら、私は本当に存在しているでしょうか?
今、誰も私のことを考えていない。今、私が死んでも誰も気づかない。生きていても、死んでも、違いはないだろう?
生に意味を与えるのは、愛です。あなたがこの世界に生きていて欲しいというメッセージを与え、受け取ることです。あなたに話しかけ、あなたの身体に触れ、あなたの名前を呼び、あなたの存在を確認し、あなたの存在を祝福するということです。
愛がなければ、死んでも同じです。
本当だろうか?欺瞞の足音が聞こえる。
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なにを言ってるのか分からない?これは一種の警鐘であると言ってよい。伝わってほしくない。色褪せてしまう気がして。自分の心の奥底に、大事にしまってある言葉。消え入るような声で、「」とだけ口に出すのさ!
着想した段階からいきなり体系立ってるなんて、ありえないんだ。最初は支離滅裂な断片にすぎない。断片的な事柄を編集してまとめあげるのが関の山。最初からまとまった考えが「ポンッ」と出てくるなんて、ラマヌジャンみたいな神的インスピの場合だけだよ。あなたは神ってないし、あなたはラマヌジャンじゃないですから、地道にやって下さい。後生だから。
コードが共有されていない?確かに。蟻の話をしようか。
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私は平生、死んだ魚のようにこの世に醒め切った目をしている者だが、その目は蟻をまなざすときにだけ、爛然と輝く。その言葉は世界の真理を言い当てているからだ!ならば、蟻に語らせてみようじゃないか!私に活力を!情熱を!与えてくれやしないか?
「ううん、話したくない」
いや、違う!慣例的に「ううん」となってはいるが!実際の発音はまさしく「ん〜ん」だろう!問答無用で、その口をこじ開ける。
「僕は蟻だ。名前はまだないし、これからもない。有象無象の、有蟻無蟻だ」
とうとう蟻が語り出した!耳をすまさなければならない。聞き漏らせば、明日には太陽と月が合一してしまうだろう。
「僕はね、自分の顔が恐ろしいんだ。顔って制御不能だから。自分で見ることができない。自分であって自分でない、主体であり客体であるような、不可解な、顔。表情はおろか、顔の造形さえも自分で認識することができない。家の鏡に映る顔、地下鉄の窓ガラスに映る顔、友達が撮ったあの写真に映る顔、友達が撮ったこの写真に映る顔、これら全て私の顔だが、どれが私の顔なのか、分からないんだな。私の顔が、たくさんある。自分の顔に歪みがないか、醜くないか、悪意が表れていないか、いくら気になろうとも、自分で見ることはできない。何かに映った像や、他者からの言及によって間接的にその姿を探ることしかできない。しかしまあ、一切の歪みを排した均整な調和よりも、歪みの上に成り立つ絶妙な調和のほうが、見応えがありやしないか?クラシシスムではなく、マニエリスムへの志向だと言っても構わない。時代はフィグーラセルペンティナータさ!視点や光の当たり方や体調や肌の調子や髪型なんかの諸条件によってその調和はいとも簡単に崩れるが、時折それらの諸条件が見事な一致を見せ、絶妙な調和を現出する。見るたびに異なる顔を見せる、複数性を孕んだ奥深い顔、だなんて言ってしまってもいいかな〜♪ そしてもちろん私は絶妙な調和を実現している顔(a face)に複数性(my faces)を代表させるのさ!そいつが私の顔(my face)だ!」
「ところで、一番星を知っているか?僕は知らなかった。7年前の11月、彼女がその細い指先を秋のわびしい寒さで澄み渡った空に向けて、『ほら、一番星』と僕に囁いたんだ。夕暮れどきに一番最初に輝き出す星のことを、一番星というらしい。その時僕が目にした輝き、それは金星のものだったか、彼女の弾ける笑顔だったか、判然としないが、とにかく、その輝きが目の底にこびりついていて離れないんだな。そこんところをしっかり弁えてもらわないと、俺はすっかり……いや、なんでもない。」
蟻はここで一息つき、いわくありげな怪しげな光をその眼にたたえ、こちらを睨め付けた。
「ここで一つ考えてみようじゃないか!俺が今、お前に対して『あそこに金星が見えるな』と呟いたならば、お前はこの言葉の意味するところ、この言葉が背負っている種々の情感を感じ取るだろう、あるいはあるいは目にしたこともない彼女のとびっきりの笑顔を想像するだろう。だが、俺がもし道ゆく通行人に言ったとしたらどうだ、ただの奇人ということになるだろう!相手は僕のことを知らないし、この言葉に意味を与えるコードを知らないからだ!いや、そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、重要なのは、な、美を所有しようなんて馬鹿げたことは考えもしない方が良いってことだな。だってそうだろう?ここにとある一輪の花が咲いていたとしましょう。あなたは花の美しさに心底うっとりして、所有したいと思う。しかし、摘み取ってしまったが最後、その花はたちどころに枯れ朽ちてしまうだろう。あなたの手の中で、茶色になった花びらが、パリパリと音を立てて散っていく。いいですか、美しい獣は大地を縦横無尽に駆け回っていることによって美しいのです、美しい魚は大海の千尋を猛り泳ぐことによって美しいのです。あなたがその美を所有することなどできないし、あなたを超越しているからこそ美しいのです。直感的に分かるでしょう?私は分かりますよ、「」の美をかき抱こうとしても、掬い上げた水が指の隙間から零れ落ちてしまうように、「」がふっと消えてしまうような気がして。もの悲しい気持ちになります。」
この時点で、蟻は尋常ではないほどに酔っていた。もはや蟻がしゃべっているのか、酒が喋っているのか分からない有り様だった。酔眼朦朧、スポンテニアス脱構築さ!ここで蟻、もとい、酒はプルーストを引いて、爆笑する。
「愛が不可能の壁に突きあたっていることを思い知らされるのだ。われわれは、愛の対象である人間が、肉体のなかにとじこめられて、われわれのまえに横たわりうるものであると想像する。遺憾ながら!愛とは、その対象である人間が、過去に占めた、そしてまた未来に占めるであろう、空間と時間との、あらゆる点にまでのびた、その人間の拡大のことなのだ。そのような場所、そのような時間と、その人間との接触を、われわれが占有しないかぎり、その人間を占有するわけには行かない。ところがわれわれには、それらのすべての点にふれることができない。まだしもそれらのすべて の点がわれわれに指示されているならば、もしかするとそこまで手をのばすことができるかもしれない。しかし手さぐりをいくらつづけても、それらのすべてを見出すことはできない。そこから、疑念、嫉妬、迫害がはじまる。われわれは貴重な時間を費して筋の通らない足跡を追い、それと感づくことなく真実のかたわらを通りすぎてしまうのだ。」(『失われた時を求めて』筑摩書房、ちくま文庫、第五篇囚われの女 、168)
「ハハハ!傑作じゃないか!愛とは所有の一形態である!愛とは支配の一形態である!愛⁇黙れ。相手の身体を独占し、過去、現在、未来における相手の交際を独占する、それの何が楽しいのか?私には手を繋いで歩く巷のカップルたちが、お互いの手首に手錠を掛け合って喜んでいる異常者たちにしか見えないよ!疑念だと?笑わせるんじゃない、人間を所有できると思っているお前の傲慢さを顧みるがいい!私は彗星論者ですから。彗星と地球の関係みたいに、それぞれが違う旅を送りながら、時折、邂逅する。笑ったときの、鶴の足跡のような目尻の皺を見て、確かにあいつだ、あいつだよと、暗闇の宇宙に羽ばたき消えゆく白き艶を思い出す。久しぶりだな、とそっけなく、酒を酌み交わす。尾は長く、引かれている。願望の翼よ、私を往時に連れ戻せ!」