今シーズンを始めるにあたって、ある行動指針を定めました。「具体的で形ある、身体に近い領域への参入を」というものです。
このスローガンは意味と密接に関連するものなのですが、トピックがデカ過ぎるため、限られた分量の中でこれを説明しようとするとただの怪文書になってしまうような気がしなくもないですが、意味について何かしらの燻りを抱いている人に対して、少しくらいは示唆を与えられることを期待して、簡潔に私見を書き留めておこうと思います。
私たちは日常的な場面において、程度の差こそあれ、意味について問いを発することがあると思います。それは例えば、「水泳をやる意味ってなんなの?」とか「人生ってなんの意味があるの?」といった形を取ります。水泳部の媒体で書いているので、まずは前者について見てみましょう。水泳部では日々、選手たちはより速いタイムを出し、ベストを出し、レギュラーに入り、より大きな試合でより高い順位を取るために日々頑張って練習していて、マネージャーやトレーナーは選手のそうした目標を達成できるように奔走しています。水泳をやる意味とは、とりあえずは「より速いタイムを出し、ベストを出し、レギュラーに入り、より大きな試合でより高い順位を取る」ことだと言えます。これについては部員は概ね賛同するのではないですか?これについて公然と異議申立てする人はそもそも水泳部に入る必要があんまりありません。こうした意味は水泳部というコミュニティ内で前提視されています。では、今度は「より速いタイムを出し、ベストを出し、レギュラーに入り、より大きな試合でより高い順位を取る」ことの意味は何かを考えてみましょう。よくわからなくなってきますね。25mなり50mの水路をできるだけ速く移動することの意味?速く移動してそのタイムを競うことの意味はなんでしょうか。まあ例えば「ベスト出たり勝ったりしたら嬉しいから」とか自然な答えですか?では嬉しいから何なのでしょうか?人間が嬉しさや幸福を感じるという事象にどのような意味があるのでしょうか?問いまみれになってきてさらによくわからなくなってきました。これも例えば、あんまり答えになっている気はしませんが、「人間は幸せになるために生まれてきたのだ」とかよくある答えですか?ではさらに突き詰めて、人間が生きていることの意味とはなんでしょうか?あれ、冒頭に挙げた二例の後者に回帰してしまいました。
意味不明になったところで、今度は別の視点から意味について考察してみましょう。さっきまで扱っていた意味というのは、意義や価値、目的とも言い換えられるような、物事の意味でしたが、今度は言葉の意味について着目してみます。
言葉の意味も、よくよく考えてみれば実は難しいです。例えば、「リンゴ」の意味ってなんでしょうか?まあ普通に答えるならば、「赤くて丸い果物」みたいな答えになると思いますが、さらに、じゃあ「赤い」の意味は?「丸い」の意味は?「果物」の意味は?と問うことができます。「赤い」の意味は?と言われれば、「色が赤だ」としか答えようがないですが、これに対しても、「色」とは何か?「赤」とか何か?と突っ込むことができます。このように、言葉の意味は実は固定的に定めることができるものではなくて、実は無限にループしていくものなのです。無限の意味の連なりの先に、辞書的な「赤くて丸い果物」みたいな表層の意味が生まれてきている、みたいなイメージです。
意味の無限ループのほかに、言語にはどのような性質があるでしょうか。例えば、「上司」という言葉の意味を考えてみましょう。「上司」を説明する際、部下との関係性を抜きにして説明することはできませんよね。当たり前の話です。部下なき上司は存在しません。部下がいてはじめて上司が存在します(逆も然り)。ここから言えるのは、任意のAという言葉を考えたとき、Aはそれ単独で存在するのではなく、常にAでないものをセットとして持っているということです。
もう少し言語の性質について見てみましょう。今度は、蝶々を例にとってみます。蝶々と似た昆虫に蛾がいますが、我々はパッと見てどちらがどちらかまあ判別つきます。しかしフランスではそうはいかないらしいです。なぜなら、フランスでは蝶と蛾をひっくるめてパピヨンと呼ぶからです。フランス語において蝶と蛾は区別されていないのであって、それゆえ、フランス語を話すフランス人は、蝶と蛾を区別して認識することがないというわけです。日本語話者とフランス語話者とでは、同じ世界を見ているはずなのに、世界の切り分け方が違っているのです。この例から分かるのは、人間の認識が言語に規定されているということと、言語による世界の切り分け方は必然的なものではないということです。蝶と蛾が最初から独立したものとして存在しているわけではなくて、「ひらひらと飛ぶ6本足の生き物」くらいの感じで曖昧に存在していたところに、「蝶」と「蛾」という言葉が介入してくることによってはじめて両者が区別されるということです。言語以前に世界が存在しないということではなく、確かに世界は存在しているが、それはカオスとして存在しているに過ぎず、その混沌とした世界が人間に明快に認識される形で秩序づけられるのは、言語による恣意的な(ここでは「必然性を持たない」という意味)文節化の後です。つまり、ものが先にあってそれを指示する言語が後にあるのではなく、言語が先にあってその後にものが認識されてくるということです。
少々長くなってきましたが、言語の意味の性質について最後にもう一つだけ検討したいと思います。先に言えば、それは、言葉の意味は文脈によって規定されるというものです。簡単な例を出せば、「はし」なんかそうですね。音韻としての「はし」は複数の解釈が可能です。「はしに寄って」と言えばもちろん「端」ですし、「はしで食べる」と言えば「箸」ですね。あるいは、「はしを渡る」ならば「橋」になります。言葉は文脈次第で全く意味を変えてしまいます。他にも、こんな例があります。とあるドラマのワンシーンなのですが、主人公の男の子には好きな女の子がいて、その女の子から「好きな食べ物なんですか!」と聞かれ、威勢良く「ナポリタン!」と答えるシーンです。ところが実はその会話の前に、「好きな食べ物を聞くのはあなたのことが好きですという意味である」という話をしていたのです。この文脈を踏まえると、そのシーンは女の子から主人公への告白であったにも関わらず、主人公はその文脈をすっかり失念していたために、彼女の発言を文字通りの意味で受け取ってしまい、アホなことに「ナポリタン!」などと答えてしまったという理解ができます。言葉は決して辞書的な意味だけでは完結せず、文脈によって思いもよらぬ意味をも持ちうること、そしてその文脈を見落とせば当然そうした多様な意味も取り逃がしてしまうということの例です。
ここまで長々と言語の性質について論じてきました。①言語の意味は無限ループの中で転送されていくこと、②任意の言葉は否定を前提としていること、③言語が世界に先行していること、④世界が言語によって恣意的に文節化されていること、⑤言語の意味が文脈に規定されることなどを若干の具体例を交えながら駆け足で確認しました。この過程で言いたかったのは、言語の意味は一見最初から独立して存在しているように見えるが、実際のところはそうではなく、他の言葉との関わり合いの中で存在しており、我々がその言語の位置する文脈を見出すことによって、後から暫定的に解釈されるということでした。
さて、一段落ついたところで、さらに一歩進んで、あるいは一歩戻って、文化一般について検討してみたいと思います。ただ、文化一般といっても人によって頭に浮かべるものは様々ですので、「AとBを区別して、そこになんらかの価値判断を行うこと」くらいに適当に定式化しておきます。文化=価値の体系くらいの感じです。区別や価値判断は、言語によって行われます。先ほど述べたように、蝶と蛾という言葉を知らなければ、両者を蝶と蛾として区別することはできませんし、例えば「蝶の方が蛾よりも美しい」などと価値判断を行う場合にも、「美しい」という単語を知らなければそこに美しさを見出すことはできません。蝶の中に美しさを誘発する要素があったとしても、それを感じる人間がいなければ美しさという価値は存在し得ないし、また、美しいという言葉がなければ、蝶を見て感じたえもいわれぬ感情を、醜さなどから区別して文節化することはできません。つまり、人間の文化は言語によって構築されていると言えます。したがって、人間の文化についても、先ほど見たような言語の性質が如実に現れています。
そのことを、水泳において簡単に例証してみましょう。上で検討したように、水泳の意味について考えれば、次々と問いが連なり、無限に後退していきます(ベストを出すこと→ベストを出すと嬉しい→人生の目的は幸福→人生の意味→…)。これは「りんご」という言葉の意味を考えたときの特徴①と類似していますね。さらには、水泳をやる上で重要な構成要素となっている「速さ/遅さ」や「ベスト」という概念についても言語との類似性が見られます。本来タイムというのはあらゆる区別や価値判断から離れた純粋な数直線上の目盛に過ぎないはずなのに、そこにいつしか「速い」とか「遅い」とか、「ベスト」という意味づけがなされるようになりました。しかし、どこからどこが「速く」てどこからどこが「遅い」かというのは恣意的な判断に過ぎませんし、「速さ」はそれ自体で成立するものではなく、常に「遅さ」とのセットで成り立つものです。速いとか遅いという性質は、世界にはじめから存在するものではなくて、その言葉が導入されることによって後から切り出されてくるものなのです(ベストについても同様です)。これは言語の特徴②③④に対応しています。
ここで、別の側面から指摘しておきたいのは、人間文化の虚構(フィクション)性、あるいは物語性です。この世界の文化が言語によって構築されている以上、それは言語以前に存在しないものであるし、人間以前には存在しないものです。この世界の区別や価値判断は最初から存在しているものではなく、人間の言語によって作り出された虚構に過ぎません。言い方を変えれば、この世界には元々区別も価値も存在しないのに、人間が勝手にそれを解釈し、語っているだけなのです。文化には、根拠も必然性も実体性(ここでは「それ自身以外のなにものにも依拠せず独立して存在している」くらいの意味)も欠けています。(逆に、文化が、現在流通している形だけが自然で本質的なものであるという絶対的制度として立ち現れてくる場合に、それが人々に並々ならぬ抑圧の苦しみを与える例は枚挙にいとまがありません。人々からあらゆる抵抗の手立てを奪い、抑圧の苦しみしか与えないような制度は、全く妥当ではありません。ただ難しいのはほとんどの文化が抑圧的に働く一面を持っているという点です。とはいえ抑圧が看過されていいというわけではありません。)そう考えると、なんだか気分が悪くなってきます。なぜなら、私たちが意味がないとは疑いもしなかったこと、当然区別されて然るべきと前提視していたことが全く当たり前ではなくなってしまうからです。そうすると、世界から背骨が抜かれたような宙吊り状態に陥り、不安に駆られます。方向性を失い、くらげのようにぷかぷか浮かぶしかなくなってしまいます。
もう意味がわかりません。あらゆる区別と価値判断の無根拠性に触れ、どうすることもできなくなってしまいました。水泳どころか、生さえ、幸福さえ無根拠なのではないか?
しかし、ここで明らかになっているのは、この世の物事に意味など存在しないということではなく、意味の根拠を人間を超越した根拠によって論じることができないというだけのことです。この時点から私たちは、意味の実体性ではなく、意味の妥当性を問わなければならなくなりました。どのような意味に意味があると「私たちが」見做し得るのか。どのような意味に「私たちが」洗練さを見出すのか。意味とは、私たちを超越して存在するものではなく、私たち自身が文脈を見出して主体的に決定するものです(→特徴⑤)。
では、ものごとに意味を与える「文脈」とはなんでしょうか?文脈とは具体に他なりません。発話者と受け取り手の置かれている具体的状況のことです。文化の実践の場です。水泳に意味があることの実体的根拠は何か?そんなことを聞かれても誰にも分かりません。しかし「好きな食べ物はなんですか」が、字義的に捉えれば単に「ナポリタン!」と答えれば済むだけの意味しか持たないのに、それが発話された文脈を辿ることによって「あなたのことが好きです」という意味を帯びるように、水泳もまた一旦暫定的に「ベストを出すこと」を意味としておいて、その達成に向かってこだわりを持ってコミットする過程で、個別的な顔と名前を持った多くの人と出会い、関わる中で、自分一人では到底抱き得なかったパッションが生成され、そこに主体的に巻き込まれていくという具体的文脈を自ら作り上げていくことによって、単なる空虚な信仰に過ぎなかった「意味」に、確かな歴史的重みと豊かな感情の彩りが「後から」付与されていくのである。意味は実践によって形を得るのだから。意味とは、予め存在するものであると同時に、遡及的に見出されるものなのだから。こだわることによってこそ、人間的価値が宿るのだと思います。
そのような経緯で、「具体的で形ある、身体に近い領域への参入を」というけったいなスローガンを立てるに至りました。練習へのある程度真面目な参加、ブレ面MTGや朝パ、同期とのルネ飯、阪神合宿や中京、部室での交流、後輩とのご飯といった場に参入していったのは、それまでの思考態度があまりにも観念的であったことへの反省からでもあり、そのような個別的で具体的なひととの関わりからしか価値は重みを持ち得ないということへの確信に由来するものでもあります。
これまで書いてきたことを簡潔にまとめれば、人間関係の網の目の中でしか意味は見出されないというだけのことです。そのことに気づいてから、自分なりに、様々な代替不可能な文脈を撚り合わせ、積極的に意味を見出すためのテクストを多少は主体的に織り成してきたわけですが、関カレである程度の結果が出て嬉しかったです。たくさんの人に喜んでもらえて、応援してもらえて、嬉しかったです。いくつもの具体的光景が目に浮かびます。冒頭の水泳人生テンプレ振り返りは情感0で具体的人物も全然出てきてないですが、その行間には様々な人との鮮やかな記憶が確かに刻まれています。
さて、普段からこんなかったるいことを常に気にしながら生きているわけではなく、大体はもっと浅薄に生きていますが、引退日記ということで、ご容赦ください。
同期とは同じ3年半という時間を過ごしてきたはずなのに、ほとんどの時間を平部員として気楽に漫然と過ごしてきた私と、さっきまで長ったらしく書いてきたことも、言葉は違えど、あるいはもっと言えば言葉を介することなくはなから了解していて、その上で、多忙を極める中、もっとプラクティカルな問題に対して身を削って対処しながら、真摯にひとと向き合い真剣に水泳に取り組み続けてきた同期とでは全然その年月の洗練さと重みが違っていて、そのことに対する後悔と、水泳部に全然コミットできなかったことに対する申し訳なさはありますが、それでもたくさんの人との関わりがあり、その中で多くのことを感じ、経験できたことに、感謝するばかりです。そういえば、全国公の最後に雑に話していたのは、そういうことです。
ガキさんリスペクトと言いつつ、ガキさんよりは少し長くなってしまいました。
僕の京大水泳部は大体こんな感じでした。
い〜ざさ〜らば〜〜*
*琵琶湖周航の歌、一番最後の一節。
1. れいた節全開のこういう日記読むの最後かと思うと悲しい
引退日記を読んだり、インカレの時に話した時に改めてそれを感じて、尊敬の気持ちをもつとともに、なんだか少し羨ましい気持ちにもなりました。
なんか途中いなかった時があったような気もするけど笑、同期で最後まで一緒に水泳部にいられてよかったです!
またドライブ第2弾開催しよう!!