お疲れ様です、永井です。
引退してから暇です。やるべきことがないわけではないですが、やる気が出ないので何もしていません。
この日記もそうで、ほんとはもっと早くあげるつもりだったのが、夏季長も出てないのに夏季長後にあげることになってしまいました。インカレに向かう道すがら書いています。みんな頑張ってね!
最近は何もしないのはどうかと思い、5月に入校してから一度も行ってなかった普通二輪の教習に通っています。ただこれも自分から行こうという気になったというよりは、全然来ないことを心配した教習所がわざわざ「大丈夫ですか?来れそうですか?よければ予約お取りしますよ」などと配慮のお電話を入れてくれたからです。宝池優しいですね。
教習所は普通に宝池に通うのがいいと思います。松崎にあるんで結構北に思えますが、チャリで行けばすぐ着きます。教習所の北正面には五山の送り火のやつの一つである妙があってなんかいいです。送り火の当日は敷地を近隣住民に対して開放してるらしいです。
僕を担当してくれた教官のテクニックがどう考えても上手すぎたので調べたら、世の中には全国の教習所の教官が参加して技能を競う大会が存在するようで、彼女はその全国大会の二輪部門で6位に入賞していました。本人の運転が上手いだけでなく、アドバイスも的確で、教える方も上手かったです。
ちなみに、その全国大会は鈴鹿サーキットで開催されたらしいのですが、実は僕は鈴鹿サーキットで走ったことがあります。車で走ったわけでも、バイクで走ったわけでもなく、普通に足で走りました。毎年多分12月にマラソン大会が開かれていて、中学生のころ、それの2キロのやつに参加したのです。みんなでコスプレして参加したらその写真が次の年の公式ポスターに使われていました。2キロなんて余裕だろと思っていましたが、鈴鹿のコースは普通に傾斜キツくて、超しんどかったです。あとワカメみたいな黒いウニョウニョが腐るほど落ちていて、何かと思ったらタイヤカスでした。消しゴムのカスと一緒で、レースしたらタイヤのゴムが熱で溶けてカスになってサーキットに散らばるわけですね。
二輪の教習は普通に楽しいです。
私が書いているのは引退日記でした。引退日記って普通に至難の業というか、3年半の経験って膨大なので、何を書いて何を書かないのか、その取捨選択が難しいですし、どのような文体で、どのような目的で書くのか、どのくらいの分量を書くのか、色々ぼんやり考えていたらこんな時期になってしまいました。考えた結果、ブレ面の後輩としてガキさんリスペクトで行こうと思います。
〜高校
JSS中川という地元のスイミングスクールに通っていた。やたらみんな速かった。JO出るのが当たり前みたいなクラブで、みんな体操の時間にバク宙とかしててどう考えても普通ではなかったと思う。高校からはみんな私立に行ってしまったので、僕は高校生1人で3つ下の中学生と一緒に泳いでいたが、普通に負けていました。
JSSグループにはグラチャンというクラブの全国大会があるのですが、それにすら一度も出られませんでした。何回か制限までコンマ何秒、みたいなことはあったと思うんですけど毎回きれませんでした。
という感じで、周りより全然遅かったわけですが、その環境が苦しいとかは全くなく(それが速くならなかった理由かもしれないが)、楽しみながらやっていました。僕の高校までの楽しい記憶のほとんどは中川で作られているといっても過言ではありません。今でも中川の、プールはもちろん、トレーニングルームやジャグジー、シャワー室、更衣室、ロビー、フロント、コーチ室、などなど、色々な場所で色々な人と過ごした色々な記憶をふと思い出します。
数年前に建物が移転して僕が通っていた中川は消失してしまったのですが。
才能がないと思い悩むこともありませんでした。どう考えてもみんなの方がより高いレベルで、より多くの量の練習をこなしていたので。
そういう環境で過ごしていたからか、昔から、自分のやっていることが「努力」に達することはなく、常に「努力風の別物」であるという意識があります。努力としては断じてオーセンティックになり得ないという意識です。かといって、それが「俺はまだ行ける、あいつらには負けたくない」というようなハングリー精神や競争心に転化するわけでもないので溌剌さに欠けます。
なんとなく、自分の持っているリソースの中で、これまでの最高を少しずつ更新できたらいいかな、くらいの緩い心持ちでやっています。エンジョイスイミング?
大学〜
全進シーズン
早起きを懸念して入部を渋っていたが、体験に行くとたくとさんに「俺みたいのでも生きては行けてるから大丈夫だよ」とかみささんに「入っちゃえ」とか言われ入部した。結局浪人で身体が完全に死んでおり、シーズン終わりまでベスト更新できず。
4回生とは半年ほどしか一緒にいなかったが、それぞれから鮮烈な印象を受けました。めちゃくちゃ寒い京大プールのプールサイドでひろみちんさんとめちゃくちゃ浅いゴムボートのお風呂に寝転がって、みんなが練習を頑張っているのをのんきに眺めながらしょうもない話をしたのをなぜかよく覚えています。
それとよくくさかさんが踏水会で練習後に残って色々泳いでいたのも印象に残っています。練習終わったら当時はトレーナーもいなかったのでストレッチもなく、朝パなり授業なりですぐ更衣室に向かう人が多かったような気がしますが、くさかさんはよく最後までプールにいたように思います。なんかそのときのことを覚えていて、最上回生になってからはできるだけ9時まで残って練習中にはあまりできないドリルなどをするようにしていました。気づいたらそれが普通の光景になっていて、9時前なのにプールに10人以上残ってたりすることもよくあっておーとなりました。僕は1限なかったのでできましたが、みんなは結構1限遅刻してそれやってるみたいでびっくりしました。
青炎シーズン
冬は若干死んでいましたがそれなりに練習もし、高校までのベストも更新できました。
3月の秋葉山合宿が終わってからブレの調子が良くて、春短ではベストは出るな〜と思っていました。それで普通にベストは出たのですが、1ブレが全国公の個人のチャレンジに引っかかっていたので人生で初めてチャレンジに出場しました。普通に全国公切りたかったのか、僕が1人で出るより2人で出たほうが僕の心の支えになると思ってくれたのか分かりませんが(そもそもなんで1ブレに出ていたのかも謎です)なぜか直己さんも1ブレのチャレンジに出ることになり、スタートリストを見ると隣でした。直己さんについていけば切れるぞと思いつつ、非常に気合を入れて泳ぎました。ベストも出て、そのときの全力ではありましたが、結果として専門ではない直己さんが標準を切り、僕は切れずというなんともいえない感じに終わってしまいました。
あきひろとゆうごが新入生として入ってきてレギュラーヤバスとなり、かろうじて関国は出れたものの、関カレと全国公は出れませんでした。関カレのレギュラーがかかった関チャはそれなりに練習してめっちゃ気合い入れましたが、普通に力んで死亡しました。ガキさんが関国で9秒台出していて、あきひろも多分関チャでは9秒出してくる予想だったので、10秒割を最低限の目標として臨みましたが、普通に10秒かかり、あきひろは想定通り9秒出したので関カレ出れませんでした。
総乱舞シーズン
なぜかあまり記憶がありません。同期の何人かで長江辺で辛い変な鍋を食ったのとか、地塩で鍋食べたのとか、直己さんにJK無限に奢ってもらったのとか、記憶に残っています。
知らない間に笹村さんが超速くなっててびっくりしました。
あとたくとさんが関国でベスト出して表彰台に上り、みんなでめっちゃ盛り上がったのもすごい覚えています。
堀スターダムシーズン
心機一転、ラストシーズンはそれなりに頑張ろうと思いました。距離泳ぐのはまあ10月からでいいか、ということにして、9月の間はドリルや飛び込み、ターンなど、技術面の練習をして、オフ明けへの準備をしました。特に飛び込みは引退したてのゆきとさんに色々教えてもらいました。飛び込み自体が顕著に改善することはなかったのですが、ゆきとさんが解剖学的な視点で解説してくれたおかげで、飛び込みに限らず、泳ぎのフォームや筋トレのフォームなど、色々な身体の動きに対して、解剖学的な視点でアプローチするきっかけを得ることができました。
技術面に限らず、オフ明けからの練習に際して、どのように練習を頑張ればいいのか、それぞれのメニューに対して、どのような目的意識を持って取り組めばいいのかということについても運動生理学的な観点から、ゆきとさんに色々教えてもらいました。メニュー係をやってくれていた同期やしっかり考えて練習に取り組んでいる選手にとってはもう常識だったのでしょうが、トレーニングカテゴリーについて全然理解できていませんでした。メニューにトレーニングカテゴリーが追加されてメニューの下に簡単な解説表がついたのも総乱舞シーズンからだったと思いますが、あまり気にせずただ漫然とイージー/ハード/フォームくらいの意識で適当に練習していました。色々教えてもらったことで、最上回生になってようやくメニューの狙いを意識して練習に取り組めるようになったと思います。
オフ明けからの1ヶ月がこのシーズンで一番身体的に負荷がかかっていたように感じます。完全に身体が衰弱していたので、回復させるまでに多大なエネルギーを要したからです。毎練習頭痛と吐き気に襲われていましたが、実際に吐くことはなかったので大丈夫でした。それと全然レベルは違いますが、兄も「ガチゲロりそう」とか書いてたのでそういうものだと思いました。「ガチゲロりそう」はそのキャッチーな語感も相まって、練習中結構脳裏に浮かぶことがありました。あの元気権化の兄でさえ「ガチゲロりそう」になるまで練習をしていたならば、僕の練習強度の絶対値はそう大したことないという論理です。
そんなこんなで練習を続けると、冬季公認でも春室でも少しだけベストが出ました。よかったですね。
あと筋トレもするようにしました。りょうせいさんも「そんな細い身体で泳いでも意味ないよぉ。泳ぐ前にまず筋トレしたら?」と言っていたので。シーズン始まる前にガキさんと喋る機会があって、「いややっぱね、ブレの神髄は背中よ。懸垂がいっちゃん大事やから。背中。もう背中。俺20回とかやってたで、ほんまに。」と言われたのを一つのきっかけに懸垂もちゃんとやるようにしました。
トレ室は週2ペースで行ってはいましたが、最後まであんまり伸びませんでした。夏はトレ室暑すぎて30分とか滞在していると病気になってしまうので週4くらい行って分散させていました。暑くても時間が短ければギリ耐えられますし、筋肉痛になる部位が少なくなって翌日の練習にも響きにくいので時間がある人にはオススメです。
春室が終わってからは、3月後半から4月頭にかけて、怒涛の強化期間がありました。阪神合宿、京大合宿、中京です。それまで一部練ばかりであんまり量こなしていなかったので、いきなり短期間に膨大なボリュームを消化したことによって、全てが終わった後、完全に身体が悲鳴を上げていました。阪神合宿は4泊5日でキツすぎましたが、鈴鹿の環境が良すぎたのと、練習の雰囲気が良すぎたので全然楽しめました。ある程度交友も広げられたので良かったです。他大の人と会えるので試合がより楽しみになりました。京大合宿は阪神合宿で身体が終わっていたので満足に練習できませんでした。肋骨を折っていた後藤くんと一緒にチャリ走をしましたが、予想よりはるかにキツかったです。全身汗まみれになって、陸上の競技やってなくて良かったと思いました。中京は縁あって行かせていただきましたが、とても得るものが多かったです。アップからサイクルアウトして後ろに追いつかれ、みんなが平然としている中1人だけゼーハー肩で息をしているような目も当てられない状態になり、久しぶりに練習でガチ狼狽しました。一方で、卓さんやブレの面々にドリルを教えてもらっている中で、人生ではじめて水を滑る感覚を会得し、おーとなりました。他にも色々なことを本当に親切に教えていただき、多くのことを学びました。中京の皆様方、ありがとうございました。
そんなこんなで対抗戦を迎え、関国は1日目の2ブレでベストが出ず、夜にめちゃ体調が悪くなり、2日目あんまり回復せず、終わったかと思いきや、なんとか1ブレでベストが出ました。よかったですね。
関カレは割と合わせていた試合だったので、それなりの結果を出せてよかったです。正直この一年関カレしか見えていませんでした。個人で決勝に出たのは実は競泳人生初でした。
全国公はただの引退試合だったので特に何もないです。実は全国公に出たのも初めてでした。グラチャンにも出れなかったのである程度の全国大会に出たのも競泳人生初ですね。
こんな感じで引退日記のテンプレに従って淡々と書いてみましたが、山なし谷なしの平板なものですね⁉︎楽しかったので良いです。
Br面の皆さんもありがとうございました。練習中あんまり時間取れない分毎回パーミー長い時間やってましたが、色々意見交換できてよかったです。最後の方に得た神髄あんまりちゃんと話せてないし、まだストックしてたネタあったので心残りです。
1回生で初めてパーミー参加したとき、みささんとか京介さんが「上方回旋」をさも市井に流通している言葉かのように普通に使っていてえーと思いました。水泳について専門的な語彙を使ったりしながら分析をするという機会が高校まではほぼなかったので、すごいことだなと思った記憶があります。なんとなくそういう雰囲気を継承したくて、僕もパーリーとして解剖学や運動生理学的な話を紹介したりしました。先輩に教えてもらわなければ、筋肉の起始停止作用や関節の動作、エネルギー供給機構に関する話を積極的に水泳に活用しようという気にはならなかったと思います。あとパーミーで泳ぎの話してるときにパッと理学療法的な話聞けたら楽だなと思ったのですが、最初なぜかパートにトレーナー入ってなかったのでブレ面の活動の一環としてトレーナーもパートに入ってもらいました。
学術的な話だけではなくて、泳ぎとか練習の取り組み方について気軽に聞き合って教え合うという関係性も引き継いでおきたかったですね。この前も大橋信の泳ぎについてブレ面グルが若干稼働してたしそれは達成でしょうか?あとは動画みんなで撮る機会が少なかったのが残念ですがみなさん一限あったので仕方ないですね。
練習中も大体みんな同じくらい?の団子だったので頑張れました。ブレにはブレのキツさがあるので隣とか前後で一緒に泳いでると心強かったですね。みんなこれからも頑張って〜