お疲れ様です。喘息と体調不良による咳が2ヶ月間続いた結果、咳の衝撃で肋骨にヒビが入りました、奈島です。日常生活に支障が出るレベルで痛い。ジジィかよ、ってツッコミは置いといて。。。春休み軽く泳ごうと思ってたのに、思うように体が動きません。太りました。
(文字の大きさおかしいところがあるかもしれません。。。)
さて、本日のメニュー
メニュー作成のつかピヨさん、スタッフのりこさん、しょうこ、ひろな、ありがとうございました。選手の皆さんお疲れ様でした。テーパーはいいですね。1本1本を大切にして春室まで頑張りましょう。今日は伊藤さんの動画を個人的に撮ってました。伊藤さんに限らず、春室楽しみにしてます。期待してますよぉ。さて、合格体験記です。もう終盤になりましたね。同期のこれまでの人生と言うか、生き様を知ることが出来て、読んでて楽しいです。比較的端折った人が多くて削るか迷ったんですけど、たまには長いのも良いよねってことでそのまま書きます。たまに調子乗った自分語りみたいになってるけど、これが体験記ってことですよね。ご容赦ください。とは言え、所謂受験生が味わう苦労や危機感はそれ以前に経験していたので、感動的な合格ストーリーは書けません。受験をあと数日に控えて、ギリギリの逆転合格を狙っている受験生にはマイナスのことしかないと思うので、ここで閉じることをオススメします。逆にこの日記を読んでくれている高2以下の皆さん、今から勉強したらどこの大学でも行けます。これがち。この日記が少しでも役に立てば幸いです。ちなみに、僕は親が賢い訳ではなく、特に秀でた才があった訳でもないので、気合と根性さえあれば誰でも出来ることしかしてません。では、僕が勉強を始めることになった起点からゆるっと話していきましょー。長いですが、暇つぶしに活用してください。ようやく本題祖父と父親が消防士だったこともあり、小学生の奈島少年は人を助け、人の役に立つ仕事に興味を持ち、警察官を志すようになります。警察官になるには体が強くないといけない、と思って緩く習ってた水泳をガチりはじめます。小5の終わりには、入江陵介を教えてたと言う偉い先生に見込まれて、選手コースに上がります。ここからが地獄の始まりでした。月・金・日は夕練、火・木は平日やのに朝夜のニ部練、土曜日は昼夜のニ部練。合計週9回練習。さらにタイムが遅かったら竹刀で頭を叩かれるんですね。これがまぁ痛いこと、、。チームで最年少やったので機会は少なかったものの、いざシバかれた時は頭が割れそうでした。今考えれば体罰ですね。近畿・全国レベルの中高生がゴロゴロいる中、府でギリギリ戦えるかの小学生の体では耐えられませんでした。この頃から練習が嫌いになります。死に物狂いで1年間乗り切ったものの、このままでは体も精神もイカれるし、水泳が楽しくなくなると思い、中学に上がるタイミングで選手コースから降りることを決めます。ただ、「しんどいのでやめます」なんて言おうもんなら水筒やビート板が飛んでくることは目に見えていたので、クソ真面目な性格のお陰で周りより少しだけ出来ていた勉強を始めることにしました。勉強の始まりは消極的なものでした。地元の中学校にあがり、選手「育成(?)」クラスでのらりくらり泳ぎつつ、せっかく勉強するならと思い、大阪なら知らない者はいない名門、某馬○教室に入塾します。いざ勉強を始めてみるとあらびっくり、座ってカキカキしてるだけで結果が出るではありませんか。好不調の波が激しかった水泳に比べて、やればやるほど成果の出る勉強にハマりました。勉強って神やん!!この頃から勉強が好きになります。(勉強は今も好きなのですが、法学だけはどうも相性が悪い、、、)選手コースで鍛えられた鋼のメンタルと集中力のお陰で、周りがヒーヒー嘆く塾の激ムズ課題も、攻防を繰り返しながら難なくこなしました。なんてったって、勉強しててビート板とか竹刀が飛んでくることはないからね。諦めの悪い小僧だったので、どんだけむずくても答えを見たりはせず課題に取り組み続けた結果、中2に上がる頃には塾の校舎でも学校でも1位。比較する範囲が違うとはいえ、水泳でどんだけ頑張っても取れなかった1位。勉強ってこんな単純なんやと思いました。勉強においてはYDKでした。中2の最初の定期テストで、5教科492点を取って担任が仰天したのを覚えています。その時ぐらいから大阪のどの高校を書いてもA判定しか出なかったので、家から近い大手前高校を志望していました。しかし、塾の校長に「君が北野に行かなくてどうするんや!北野専門クラスに推薦するから更なる高みを目指しなさい!!」と丸め込まれてしまい、京橋本部校北野専門クラス(通称SSST)に放り込まれます。そこから2年間は、同じ中学校から投獄された4人で楽しみながらモリモリ勉強に取り組み、学校では1位をキープ。塾では「お前たちは北野に行って、そのまま京大に進むんや!!」と洗脳され続け、理由もないのに志望は京大になっていました。(これが良くないことだと言うことに気付くのは5年後である。)一方で、部活のキャプテンになったり、生徒会に入ったりして、それなりに学校生活も楽しみました。中3になると、朝6時に起きて東大寺の英語を解いてから学校に行き、帰ったら塾の自習室にこもる。コロナでバカ騒ぎも出来んかったから丁度良かった。同じ頃に野球したり料理始めたり、有り余った時間で色んなことに取り組み、今に繋がってるなぁと感じます。灘は万年E判定でしたが、他は全模試全高校A判定をキープ出来たので特にアクシデントは起こらず、気付いたら東大寺・清風南海・北野に通ってました。中3の○ツ木のテストだけC判定を叩きつけられましたが、そんな訳ないのであれはテストカウントしてません。そんなこんなで入学し、野球部と悩んだけど水泳部に入りました。せっかくやるなら本気でやろうと思い、1年生の間は部活しかしないと宣言しました。(大阪の公立高校は90点×5教科=450点満点で、北野はだいたい370ぐらいで合格。390とか400取ればエグいと言われました。)僕は411点取ってエグい枠に入る予定だったので、親は何も言いませんでした。しかし、この驕りが絶望を招きます。初めての定期テスト周りもそんなやってないって言ってるし、エグい枠の俺やったら余裕やろ。試合が被ったこともあり、舐め腐ったままノー勉で挑んだテスト。結果、順位は300/320え、え、、、?そんなわけないやん、採点みs、、、いやみすってへん、もしかして負けたんですか?たかが定期テスト。たかが1年生の初めてのテスト。そう言われればそうなのかもしれません。けど結果を見た時、中学の3年間が全否定された気持ちになりました。中3になってようやく勉強を始めたギリギリのやつに負ける。。。こんな屈辱ないで。超がつくほど負けず嫌いの僕は目の前が真っ暗になります。これじゃ京大どころか行ける大学ないよ。YDK(やればできる子)は、YDK(やらないとできない子)でした。授業はそれなりに聞いていたのですが、それだけで点が取れるほど要領は良くなかった。医者のサラブレッドとか、親兄弟全員北野卒とか、そんな化け物がゴロゴロおる中で、舐め腐って手を抜いた凡人がのし上がれる訳がありません。ここで、自分は周りより頑張らなあかんこと、秀でた才能がないことを改めて自覚します。結果が全ての競争の中で育ち、叩き上げで結果を出すプライドがあったので、もうこんな思いはしたくない、負けてられへん。その一心で勉強を再開しました。○渕教室からそのまま○進衛星予備校にぶち込まれていたので、そこから真面目に東○に通うようになります。部活でどんだけ疲れてても、在学中北野生だけに宿るとされる六稜魂で、地面這いつくばってでも通いました。特に予定がなかった時の週末は朝から晩まで塾で勉強しました。映像授業で自分のペースで進められるので、気合十分やった僕は鬼の早さで授業を終わらせます。あと、定期テストノー勉自慢大会がキショかったので、定期テストもちゃんとやりました。数学は特に頑張りましたが、なんせ生粋の数弱だったもんで最初は苦労しました。それでも、青チャートの問題さえ覚えたら点は取れる問題だったので、青チャートの例題と練習問題は脳死で答えを作れるまで10回でも20回でも解きまくって解法暗記しました。毎回テスト前は腱鞘炎でした。数学で暗記なんて、、って思ってたけど、これはのちの数強に繋がったことは間違いない。もがきながらもちょっとずつ成績は上がり、冬のテストでは100番ぐらいにはなりましたが、それでも入学時の水準には届きませんでした。代わりに訳の分からん授業で寝始めたせいでしょう。その一方で、1月に初めて外部模試を受けると知っていたので、本命はここやと思って密かに照準を合わせていました。文理が分かれる前の最後のテスト。北野高校内での絶対順位が決まる最後のテスト。結果は、
初の校内偏差値60。特別ええわけちゃうけど、何とか1年かけて盛り返しました。順位1桁は文系内でしか取れんかったけど、毎年現役で80.90人が東大京大か医学部に行く学校にしては耐えてるほうやったと思います。そこからは要領をつかんでそこそこの順位をキープしながら、高2の間は文化祭マジック狙ったり、体育大会のダンス頑張ったり、放課後梅田で遊んだりしつつ、夏場は部活も頑張りました。素晴らしい後輩たちに囲まれながら自分が引っ張る立場になり、しんどいこともあったけど充実してたと思います。高校の顧問の名言で100(勉強)+100(部活)=100(完成形)てのがありました。勉強も部活も両方本気でやって初めて充実するって意味です。どっちか片方でと中途半端やったらあかんってこと。こう言う言葉に揚げ足を取って批判するより、なるほどって思って従う方が人生幸せだと思うので、ええやんって思ってちゃんと従ってました。そしてこの辺りから、一般の警察官と言うよりは、官僚として警察組織の中枢で働きたいと思うようになります。他の誰のでもない、自分の正義を全うしたい。踊る大捜査線を見て室井さんかっこええやんって思ったり、あぶない刑事を見てタカとユージが部下やったら大変やろなぁとかキモイ妄想してたらモチベが上がりました。僕はYDKなので(n回目)2年生のシーズン終わりからさらにギアを上げます。その中で歴史をやりたいと思ったので、社会は日本史と世界史を選びます。しんどいけど、興味無い地理とかやるより良いか、と。我ながらストイックに頑張っていたと思います。3年間のトータル勉強量で見たら、誰にも負けないぐらいは勉強してました。高2の共テ同日模試で英数国と文系3教科で8割を固めたので、あとは2次の力を付けたら受かると確信し、2次数学を解き始めました。高校で数強に生まれ変わった僕にとって、文系数学はカモでした。青チャートで覚えた解法を繋げるだけで答えが出るなんて。文系数学は勉強すれば誰でもできます。文系が解く数学なので。京大受験の丁度1年前、京大の問題をそのまま使った模試(共テ同日模試の2次ver.)で易化した数学で8割を叩いてゴリ押しでB判定。当たり前に勉強して当たり前に成績を取るのが習慣化していたので、特に何も感想はなく淡々と勉強し続けました。かといって学校のことも大事にしたかったので、息抜きの家庭科のカバンをガチで作ってみたり、放課後教室でダラダラだべるとか青春ぽいことしてみたり、勉強だけにならんようには工夫しました。これがメリハリってやつですね。この分、冬の部活は最低限しかやってなかったんですけど、、、。今思えば、やり切ったって思えるほどまでは水泳やり切ってなかったんやろなぁって思ってます。3年生になると、朝の時間を有効活用したいのと、受験当日の朝を想定する目的で、毎朝5時半に起きて学校に向い、7時から1限まで1時間勉強する習慣をつけます。勿論、電車では日本史一問一答とリスニング。朝はバタ足と同じぐらい嫌いやけど、これも京大に行くため。クラスで数人、同じようなこと考えてる人がおって、一緒に頑張れました。周りのレベルが高いという点で本当に恵まれていたと思います。どれだけ勉強してもやっぱり上がおる。それが苦になることはなく、むしろ目標が常にあることがモチベに繋がりました。部活に集中したかった引退試合前以外は1年間早起きを続けました。引退後は勉強時間を増やせる喜びでブーストがかかりました。平日は15時に学校が終わって、15時半〜22時まで塾で勉強。土日は9時〜22時まで自習室で缶詰勉強。塾が早く閉まる日はマクドで残りの勉強。毎日徒歩移動の時は、二宮金次郎スタイルで単語帳、電車では一問一答、家でご飯食べながらYouTubeでムンディ先生の世界史とパスラボの数学、風呂で英単語暗唱、寝る前5分は古文単語。そして次の日も5時半起床。平日の息抜きは昼休みのサッカーと昼ごはんの時間。あの時間だけは全てから解放され、周りの目を気にすることなく猿のように騒ぎました。男子校の楽しさを少し味わえた気がします。たまに遊んだり喋りたくなった時は、友達と予定を合わせ、午後数時間だけカラオケに行くとか、スタバでゆっくりするとか、そういうのでリフレッシュできてたと思います。そんな生活を続けると世界が変わりました。模試の問題、問題集の問題、友達が分からんってもがいてる問題。どれを見ても怖いものがなくなりました。勉強の本質を掴み、効率よく進められるようになったのもあるでしょう。さすがにこれだけやったら成果は出続け、オープン、実戦は夏秋合わせてA.B.B.Aとかやったと思います。秋オープンは冊子まであと4点の悔しさも味わいました。共テ模試はA以外見ることはありませんでした。ふーん、エエカンジじゃん。11.12月の記憶はなく、マシーンのように勉強を続けました。それでも目の奥は希望と闘志に溢れていたと思います。しんどかった記憶は1ミリもなく、最低点プラス何点もぎ取って合格するかしか考えてなかった。過去問演習、倍の時間かけて復習、教科書参照して覚え直し、東進の問題演習。共テは東進の演習講座で無限演習。時間をかけてできることは全てやり切りました。共テ本番1/13を迎えたものの、周りは北野生ばっかりで緊張もせん。1日目が終わって答え合わせをし、2日目の得点目標を立てる。それでニョッと解いたら88パーでした。9割欲しかったけどギリ及第点。巷ではあかんって言われる1日目の自己採点ですが、気持ちに余裕があるならやっていいと思います。2日目の戦略を立てやすいので。僕は採点後に数学満点目標をしたおかげで初めて190点取れました。上を目指すって大事。リサーチはAかAよりのB。下げる理由などなく速攻京大前期後期に出願。行かんけど私立も共テ利用1個ぐらい出すか、同志社かなー、出願しよ。ん、、、?あれ、、締切1/10終わってるやん共テ利用のくせに共テより前に締め切るなんてけしからん。そんな文句を言う間もなく京大1本が確定しました。落ちたら浪人やけど、浪人なんて眼中にない。(これは持論で反論はあるかと思いますが、自分の中で浪人の選択肢は論外でした。高校入学して3年後に受験があるのは分かってるから、それを逆算して3年間で勉強するものを、わざわざ高い金払って予備校に通い、1年後に受け直す。3年って期限内に終わってへんし、何より10代の大事な時間を、1年後にはほとんど要らんくなるであろう内容を詰め込むために消費する。絶対でけへんわって思ってました。けど大学入って色んな人の境遇とか事情を聞いてると、浪人も悪じゃないなと思い始めてます。浪人を考えへんぐらい、自分の周りの環境が恵まれ過ぎてたってことです。それでも自分の子供に浪人は許しまてん(。・ω・。))塾の進学希望欄には、現役進学のみかつ国公立大学のみとかいう矛盾。自分でも何書いてんねんって思いつつ、受かるし大丈夫やろマインド。2月頭の河合京大プレは数学満点の日本史85パー。周りの訳分からん奴らが、数学むずかったぴえんとか言ってて、流石に勝ちを確信しました。ただ、実力だけじゃないのが受験です。2月半ばに差し掛かった頃、急に緊張と不安でご飯が食べれなくなりました。昼はスティックパン2本、夜は味噌汁だけ食べておやすみ。これが受験か、って初めて思いました。シャーペンを持ってない時間が怖い、常に何かをインプットかアウトプットしてないと落ち着かへん状況が続きました。必然的に勉強時間はさらに増えました。そこまで来ると原動力は、受かった後の「薔薇」色キャンパスライフと周りの人の笑顔。自分の合格報告で喜んでくれるであろう人を書き出して喜ぶ顔を想像し、エンジンを入れ直しました。普段これでもか、と言うほど親と反りが合わない僕でも親に喜んでもらいたいと思えました。
何とか最後まで正気を保ち、やることはやり切って前日は京大の下見。ここで俺の人生決まるんかぁ。
当日は友達とプレミアムカーで勉強しながら向かいました。1日目はそんなやることないな。ゆる〜く友達と話しながら国語数学。数学は明らかすぎる難化で逆に安心しました。
帰ったら疲れて19時には寝落ちし、目覚めたら朝の3時。勉強する前に散歩しよ。この時間は誰もおらん塾の前とか、友達と勉強終わりにだべった場所とか、休みの日に勉強してたマクドとかを巡って感傷に浸りました。帰って軽く勉強し、集中力が極限になった状態でプレミアムカーに乗車。これが良くなかった、、、
電車で下見て勉強しすぎて酔った。吐きそうやしお腹痛いしプレミアムカートイレないし、横を見ると友達も全く同じ状況でともに絶望してました。
これなかなかヤバいかもな、、、。少なからず危機感を覚えました。
なんやかんや耐えて2日目もヌルッと終わり、勉強から解放。後期は小論文やから対策はしません。まあ受かったやろ思いつつ遊び、卒業し、旅行し、合格発表の日。
ネットが混んで入られへんくて家で待つ時間が嫌やったので、スマホを置いて野球をしに行きました。
今日が人生の分かれ道になるんかー、すごい日やなぁ、、、淀川河川敷の青空がいつもより濃い色をしてた。
12時5分に友達が耐えきれずに合否を見て不合格、
その周りがことごとく落ちまくってるのを知ってさすがに焦りました。今年って落ちる年なん?
その後もダラダラ野球して、家帰ったら14時。
あっけないぐらいすぐアクセスでき、番号をたどると、
0075
おおあるやん、
喜びよりはまず安心が大きかった。長年の目標がまず1個達成出来て良かった。周りに受かると思われてるのがプレッシャーだったのですが、プレッシャーに負けんくて良かった。
(こんな偉そうに言ってるけど、本番は英語で謎の爆死かまして、結局合格平均ぐらいに落ち着いたのはここだけのオハナシ)
けど何よりも、じいちゃんばあちゃんが僕よりも親よりも喜んでくれたのがいちばん嬉しかった。直前期のしんどい時でも、帰り道に夜ご飯食べに寄ったらいつでも温かい料理出してくれて、いつも通り接してくれるじいちゃんばあちゃんが大好きだったので、期待してくれることの尊さをより深く感じました。これから恩返し頑張っていきます。
ここまで頑張ってこられたのは、頑張らざるを得ないぐらい周りの環境に恵まれていたからでしょう。周囲の仲間のレベルが高い、頑張れる勉強環境が整っている、頑張りの成果を認めてくれる友達や先生がいる。当たり前は当たり前じゃないことに気づきました。
今はなんか下振れかもしれんけど、人生全体で見たら良い環境に置かせてもらえてたんやなと感じています。
さて、ここまである単語が出てきていないことに気づいたでしょうか。そう
「東大」
18年間の人生の中で東大を目指したことはありませんでした。
将来東京で働くなら東大に行くに越したことはないし、成績的に見ても射程から外れていた訳ではなかったのですが、北野生はとりあえず京大!!の風潮に流されました。
東大を目指していたら変わったんじゃないか、もっと頑張れたやろうなぁ、、、
いろいろ考えて夜も眠れなくなりました。
コンプは夏まで消えず、メグ様には、どうしても外せない予定と称して関カレを休ませていただき、東大オープンを受けに行きました。
感覚は悪くなかったのですが、名前をふざけて「京大仮面太朗」にしたら成績表が帰ってきませんでした。どこまでが苗字かわからんかったんでしょう。
諸々考えた結果、さすがに頭がおかしいことに気づき、いったん諦めることにしました。
いくとすれば、東大の公共政策大学院に行こうと決めました。
まだまだ受験は終わらないかもしれません。
さて、ぼくが勉強をする中で学んだことは、
①量にこだわること
勉強は量こそが至高です。量を重ねる中で自分に合う真のやり方を見つけられます。人のやり方を取って付けるだけで出来るようになるほど、勉強は甘くないことはよく学びました。
量をやっていないのに、勉強は量より質やっていう人は、学歴がないのに、学歴は社会で役に立たないって言うのと同じぐらい恥ずかしいことだと思います。
②目指せる内は上を目指すこと
大学生にもなって自腹で冠模試を受けに行きたくないなら、がちで強調したいこと。ある大学にこだわりがあるなら別ですが、決まってないならまずは上を目指してみましょう。途中でしんどくなってきたら下げたら良い。無理してまでいく価値のある大学なんてそうそうありません。けど、後になったら上げたくてもなかなか上げられへん。やらない後悔よりやって後悔。
そして、上に照準を合わせて本気でやっていれば、意外と届くもんです。本気でやれば、ね。
③勉強を楽しむこと
出来へんかった問題が、勉強して出来るようになると、経験値をためてボスに勝った様な感じがするんですよねー。レベルアップというかそんな感じ。その感覚にはまり、楽しみながら勉強できたと思います。勉強って誰もがせなあかんことやから、楽しめたら人生幸せちゃう?
絶対的な努力を重ねてきたけど、それでも不安な受験生へ
その一、
本番で実力を100%発揮できる人はほとんどいません。つまり実力的に順当にいけば、多少こけても受かるってことです。むしろどこかでミスってる前提でいくと気が楽です。
その二、
圧倒的な問題量をこなしてきたあなたが解けないと判断した問題は、ほとんどの人が解けません。つまりそれは解けなくても合否に影響しない問題です。
その三、
あなたが当たり前に解けると思っている問題たちは、受かるか落ちるかの瀬戸際の受験生からしたら容易に解ける問題ではありません。まず受からない受験生には解けません。つまり、あなたは当たり前に解ける問題を当たり前に解くだけでアドバンテージを得られます。
これらはすべて今までの努力量に裏付けられています。間違いなく。努力に基づく明確な自信は何よりも背中を押してくれます。
王貞治は、
『努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力とは言えない。』
と言いましたが、今までの努力は、努力の顔をしたパチモンでしょうか。
いや違うでしょう。つまり真の努力をしてきたってことです。つまり報われるってことです。
引用二文目の対偶を考えれば一発ですね。
つまりを多用しすぎましたが、そういうことです。背伸びせず、誤魔化さず、ありのままを解答用紙に落とし込むだけ。
僕は直前期、頑張れって言われるのが嫌いでした。なぜなら言われなくてもこの上なく頑張っていたから(今思えばひねくれてただけ、頑張れっていってくれていた人たちありがとう)。
柄にもなく、終始真面目に書いてしまいました。
まあ、ほとんどの受験生はもう全身全霊で頑張っていると思うので、頑張れとは言いません。
応援しています。
是非京大に来て、「鼠」色キャンパスライフを楽しみましょう!!
2024→2025 STARDOM
1. なんで私学の共テ利用あんな締め切り早いんやろな