お疲れ様です。たかきたです。
前置きは端に寄せておいて、今日のメニューです。
Today's Theme: 再確認&キレ↑↑↑
(↑GPT作)
メニュー作成のゆうご、草津まで来ていただいたスタッフの方々ありがとうございました。
(僕は今日週オフ取らせていただきましたが)
いよいよ今週は春室ですね。
なぜか僕は金曜日に憎き人体発生学の追試もあります。
テストに追われる生活も4か月を過ぎ、そろそろ疲れてきました。早く解放してください。
だいぶ調子はいいはずですし、何より2025年の練習が始まって一度も体調を崩さずに練習、筋トレを頑張れた自分をほめたいところです。
普段のプロテインとクレアチンに加え、1月の後半から毎日160円課金してヤクルト1000を飲んでいました。あとはマルチビタミンのサプリメント。
どっちが効いたのかはわかりませんが、前より体調がよかった気がします。これからは大会前1か月は課金して健康を買おうかなと。
春室では何とか目標達成したいところです。
(試験勉強は例のごとくやばいですが、先は見えたので気合で詰めます。)
明日から急に気温が上がっていくみたいで、寒暖差も大きいので大会直前に体調を崩さないように気を付けましょう。
ということで、今日の本題、合格体験記です。
有難いことにゆうごから合格体験記のトリを任せてもらいました。
今日はいよいよ2月24日、もう二次試験前日です。
校内でも下見に来る受験生をちらほら見かけ、横を通るたびに心の中で「がんばれ~」と応援しています。
あの日からもう季節が2回りしたようです。時が過ぎるのはあっという間ですね。
2年前、京都大学医学部医学科に合格しました。
この場をお借りして、僕の合格までの道程をつらつらと書かせていただきます。
長い月日が経ってしまったので、正直なところ忘れている部分も多いですが悪しからず。
かなり長めなので春休みの暇つぶしにでもしてください。最後ですし長めでもいいでしょう。
人生最初で最後の合格体験記になると思うのでたくさん書かせてください。
あとは普段本を読んでばかりでたまには自分でも書いてみたいな、と思った次第です。
それなりに時間をかけて書いたつもりです。
それでは、
さて僕の話をする前に、
京医に合格する人ってどんな出自の人間でしょうか。
地方の天才でしょうか、エリート一家期待の跡継ぎでしょうか。
僕は周りに京医志望の人すらいなかったため入学して驚きましたが、まず京医の合格者の半分は鉄緑会。その時点で関西か関東。
僕たちの代は8割以上が私立の出身。灘、洛南、東大寺で半分。他も大方、関西か関東の有名な私立。僕のような公立出身は僅か20人弱です。
九州の出身はたった4人、九州の他の3人も私立。加えて親が医者ばかり、時たま両親が京医だったりも見かけます。
一方で我が家は母子家庭で、身内に医療関係者は0です。僕が生まれた直後に離婚したため父親には会った記憶がなく、顔も1度だけ視界の端で写真を見た程度なのでわかりません。
詳しくは聞きませんでしたが、弁護士の試験?に5回落ちて結局受からず、パチンコで借金を作り、僕の母方の祖父に肩代わりしてもらったと聞きました。
紛れもなく最悪の人間ですが、養育費は支払ったそうです。母は養育費には手を付けていなかったため、そのお金は僕の大学のお小遣いとなっています。
片親ではありますが、母と2人でマンション暮らし、などではなく祖父母と共に実家で暮らしていました。兄弟はいないので祖父、祖母、母、僕の4人家族です。
持ち家のため家賃がかからず、家事は祖母がしてくれていましたし、祖父母の年金もあったので、子供目線ではそこまで生活に困窮していたようには見えませんでした。
当然子供目線ですので、母は本当に苦労したと思います。
今のところ、京医合格に向けて順調な滑り出しとは言えなさそうです。
僕の合格は母のおかげです。そもそも母子家庭で浪人させてもらったことだけでも有難いことです。一人暮らしの方がお金もかかるのに、関西の大学に進むことを許してくれたのも本当に有難い。
これから書くのは僕の合格体験記というよりも、母の合格体験記かもしれません。
父は名前も聞いたことがない謎私文、母は奈良女の文系から母の手で京医を製造したわけですから、これは母の合格といってもいいでしょう。
前置きが長くなりましたが小学校から。
~小学校~
よくある公立の小学校です。天才少年のエピソードなどはなく、どこにでもいる普通の子供でした。相当に病弱だったのでその点、普通ではありませんが。
小さい頃は色々な経験をさせてもらいました。覚えているもの、覚えてないものありますが、特に習い事は様々です。
卒業まで続けていたのは水泳、そろばん、ピアノ、英語です。中高は水泳部でもないのに、今水泳部にいるのはこの時がきっかけです。といっても水泳とそろばんは1,2年しかしてませんし、他も含めて全部お遊び程度です。
また、先述の通りかなりの病弱だったために小児科、耳鼻科に何度も通うことになりました。そこでいつもお世話になっていた先生が優しく、とても素敵な方だったので、「お医者さんってかっこいいな」と子供ながらに思っていました。
将来はお医者さんになろうかなと決めたのはこの頃です。祖父は定年していて、父親がいなかった分、一番身近な大人の男性の職業が医者だったからかもしれません。
お勉強に関しては、母は特段教育熱心ではなかったため、学校以外で特に何かさせられていたわけでもなく、特筆べきことはありません。比較的真面目な子供だったので、先生に言われたとおりに授業、宿題、テストをこなしていました。
~中学校~
そのまま持ち上がりの中学校です。中学では初めて部活動なるものに参加します。小学校と違い、1つのことに集中できるのが楽しく部活ばかりしていました。
小学校の頃に続けていた習い事は、ピアノを除いて卒業と同時に辞めてしまいました。ピアノだけ続けてはいましたが、不定期で合唱の伴奏をしていた程度です。
ピアノは5歳で始めたわけですが、当の本人のやる気がなく、譜読みの練習もちゃんとしなかったので今では何も残っていません。
人生の後悔があるとすればピアノと絵を真剣に練習しなかったことです。せめてどちらか1つでも磨くべきでした。この2つは老後の楽しみにでも。
勉強関係は、福岡県の高校受験は学区という制度があるので、県内の公立高校どこでも受験できるわけではありません。そこまで選択肢も多くないので、僕は特に考えずに学区の一番上の高校に行くことにしました。
大学受験と違って全国から志望者が集まるとかでもないですし、中1からずっとA判定だったのでそのまま合格しました。一応塾には行っていましたが、塾の授業中に気が向いたら勉強し、自習室には寄らず真っ先に帰宅し、中学校の授業中は本を読み、家ではゲームの受験生活です。振り返るといくら余裕だったとはいえ舐めすぎです。
中受もしてませんし、中学校でも勉強をすることなくずっと1位だったので「勉強を頑張る」という意識が何もないまま高校を迎えてしまいます。
~高校~
中学の部活は途中でコーチが転勤してしまい、そこからあまり成長できず、中途半端な結果で終わった後悔がずっと残っていました。なので高校では浪人してもいいから部活を頑張る、と入学直後から決めていました。高校生活は1回きりですから。母にも高1から浪人する、と言っていました。これもまた舐めています。
流石の僕も大学受験は適当で突破できるものではないと考え、授業は真面目に受ける、定期試験は頑張る、英単語は高1から継続する、これだけは決めていました。
高校3年間は塾に行っていなかったので、高2まで模試はほとんど受けていません。進研模試くらいでしょうか。同日模試も受けたことがないです。共テ模試も初めて受けたのが高3の夏とかだったと記憶しています。
成績に関しては、定期試験は大体400人中10番と少し、模試なら1桁、程度でした。進研模試なのであてにはなりませんが、九医がCくらいだったような記憶があります。
志望校は本命は熊大、行けたら九大かな、とか思っていました。もちろん医学部です。
今のところ「京」の文字は見えません。
高2の冬辺りまでは本当に部活ばかりです。途中でコロナ休講もありましたが、絵を描くことに時間を使っていたような気がします。
受験を意識し始めたのは高2の1月です。少しずつ数学の網羅形参考書を始めたり、学校の授業終わりに教室に残って勉強したりし始めました。
ですが、このあたりは部活の仲が最悪だったので、そっちの方にかかりきりで大して勉強できていなかったです。土日祝は全て1日中部活だったので、授業を除いた平均勉強時間は日に1~2時間くらいだと思います。
塾に行っていないと周りがどのくらい勉強しているのか知る機会がないので、全く焦っていなかったのもよくなかったです。
受験を意識し始めたのはいいですが、今までまともに勉強をせずに生きてきた僕は何をすればよいのかわかりません。とりあえず参考書や勉強法等を調べまくりました。
これ自体は大変結構なことです。が、終わりの始まりでもあります。近年のSNSやYoutubeではどの参考書がいいだの、参考書ルートだの不必要な議論が絶えず行われています。そもそも1年でそれなりの完成度まで持っていける参考書なんて1教科辺りに1,2冊が限度です。しかも難易度が同じなら内容は大して変わりません。大前提、参考書は理解を確認するためだけのものですから、どれを使っても大差ありません。
だのに当時の僕はそれに気づかず、京医に落ちるまでの1年間、無意味に沢山の参考書を買うことになります。
勉強時間は少ない。しかも効果が薄い。質も量も最悪です。
さて高3になりました。
僕の高校では校内模試が年4回行われており、1回目がやってきました。先生方も気合を入れて作っており、諸先輩方のデータをもとに、その偏差値で凡そ受かる大学がわかるようになっています。
結果は3位/400人。偏差値的にはこのままいけば九医は受かるだろう、といった感じでした。
ここで何を思ったか、高3の僕は「部活ばっかりしていて塾にも行ってないのに、どうやらこのままでは九医に行けてしまう。人生1回きりの大学受験で自分の限界に挑戦しないのはもったいない。よし上げるぞ。」と志望校を上げることに決めました。
京医にしたのは友達が阪医志望だったので「被るのも嫌だし京医にしようかな」と決めました。関東は遠いし危なしい知り合いもいないので理三はなしです。
酷い理由です。
もちろん研究に興味があったという理由もあります。2回から忙しくなって辞めてしまいましたが1回の時はちゃんと研究室に行っていました。引退したあとか、余裕があれば5,6回でまた研究室に行けたらいいなとは思っています。
あと何より京都大学ってなんかかっこいいですよね、名前とか響きが。
直後に誕生日があったので全教科の25か年を買ってもらいました。
ようやくここから僕の京医を目指す受験生活が始まります。
順調に勉学に励み、成績が上がり、模試でもA判定を取り、とうまく行くほど人生は甘くありません。
残念ながら僕は高1から浪人を決め、部活ばかりしていました。県大会、九州大会と順調に勝ち、インターハイまで進んでしまいました。当然勉強はできていません。
また、僕の高校は9月末の体育祭にかなり力を入れています。僕はもう一つ美術部にも所属しており、体育祭用の巨大絵を描かないといけなくなったので、夏休みがほぼ全て潰れることが確定しました。
案の定、本来は受験の天王山のはずの夏休みの平均勉強時間は1~2時間だったと思います。
加えて、先述の通りインターネットによって知識をつけ、参考書狂人になりかけの僕はふらふらと博多駅の丸善に通い、浮気を繰り返します。(学校から歩いて15分のところに大きな本屋があるのも悪い。)
量は変わらず、以前にもまして質が悪化してしまいます。
僕はいつも1個に熱中するとすぐに他を切り捨てようとする癖があるのですが、部活も体育祭の仕事もそう簡単には切り捨てることはできません。
勉強したい、しないといけない、でもできない、他切り捨てたい、無理、部活で眠い、絵も全然終わらない、勉強できない、しないといけない、この繰り返しでイライラが募ります。
巨大絵も何とか完成させ、インターハイも終了し、あっという間に夏休みが終わりました。インターハイは49組中15位。公立高校の少人数弱小部活にしてはよく頑張った方でしょう。部内もペアも喧嘩しまくりましたが、終わってみれば良い思い出です。
ここで、夏休み明けは本来あるはずの成長を測るため、3回目の校内模試があります。
結果は9位。低い。
9月の校内は体育祭一色です。授業も削られ、体育祭の準備が行われます。当然勉強時間は中々確保できません。
そのまま体育祭も終わり、漸く本腰を入れて勉強を始めます。しかしながらもう10月。しかも理科はまだ教科書範囲が終わってません。独学で多少はやっていたものの、電磁気も有機化学も壊滅的です。
また、この頃は夏の模試の結果がちらほら返ってきます。
判定は当然全部E。
初めての京大実戦は確か偏差値56程度でもちろんE。D判定が64程なので余裕のE判定です。
結局現役でEより上を取ったのは最後の京大実戦のD1回きりです。あと最低評価がDのオープン。
夏の初めての共テ模試は、詳しくは忘れましたが700点弱だったはず。どう考えても間に合いません。
でもこの時の僕はなぜか行けると勘違いしていました。塾に行っていなかったのが良くもあったけど悪くもあった。周りの実力を知らないわけです。校内順位が多少良くても、僕が相手にしているのは全国の超進学校の人間、鉄緑会で勉強させられている人間たちです。
井の中の蛙とはこのことです。世界が自分の中で完結しているので、京医志望者の中ではずっと1位自認で「なんかいけるかな~。」のまま不合格へ突き進むことになります。
また、この頃には完全な参考書狂人となった僕は、参考書の知識ばかりつけて勉強の知識は全然増えていません。
頑張っているふりだけは一人前なので、この頃からスマホの制限をかけていました。
0:00~23:59までです。つまるところ1日1分も触ることができません。
この時の生活は
4:30起床、勉強
5:30朝ごはん
6:00出発 電車で勉強
7:00学校到着勉強
18:00帰宅後色々、終わったら勉強
21:00就寝
とかだったと思います。
勉強時間は多くて学校がある日は授業を入れて13時間くらい、ない日は14時間とかでしょうか?
傍から見れば絶対に間に合いませんが、勉強量だけならやっと受験生と名乗れる程度にはなりました。
3か月なんてあっという間です。ハロウィン、クリスマス、年末年始が通り過ぎ、満を持さずに共通テストがやってきました。
京医のボーダーは大体90%と少し、二次力に遅れがある以上下手な点は取れません。93%で何とか足は引っ張らない程度でしょう。
1日目、無難に終了。どうなんだろこれ。
さて、2日目です。
そういえば、僕が現役の時に受けたのは2022年です。共通テスト2回目。
2回目は難しくなる、注意しろ、散々言われていました。
2日目、数学1A、もしかして結構難しい?。なんだこの整数5桁?え?手計算?無理じゃない?何とか計算し切ったけどこれ全部解くの無理じゃない?
頭から火を吹きながら必死に1Aを解いた覚えがあります。他はあまり覚えていません。
結果は
国:167 1A:79 2B:87 物:83 化:86 R:92 L:92 地理:81
計:767(85.2%)
当然低い。
とはいえこの年でこの割合なら最悪ではないです。リサーチも京医C。初めてのC。
共テだけ見ればまだ微かな望みはあります。あと40日。
この辺りから高校は自由登校になります。本来はメリハリをつけるためにも学校で勉強するべきです。が、なぜか当時の僕は家で勉強することを選択しました。
しかもいまだに勉強法は定まっていません。25年分の過去問があるにも関わらず、京大オープンの過去問を解き始める。今までまともに仕上げた参考書がないから復習もできない。問題を解いたつもり、丸付けしたつもり、見直ししたつもりを繰り返す。
非効率極まりなく、当然この期間に何を勉強したのか一切覚えていません。実力は上昇どころかむしろ下降していたでしょう。
瞬く間に無意味な40日が過ぎ二次を迎えます。全く満を持していません。
1日目、国語、感触も何もない。 数学、あ、無理だ。これ落ちたわ。
1日目の夜にホテルで予備校を調べました。
2日目、いやいや、もしかしたら巻き返しがあるかもしれない、諦めるのはださい。理科、英語、うん、全然ダメ。
3/10 もしかしたら、、、、うん、もちろんない、
そのまま12:15に駿台に電話して浪人が決定しました。
開示は
国:54/100 数:125/200 理:114/200 英:92/150
傾斜後+共テで 804.25/1250 (最低点-112.37)
””””””惨敗”””””””
これが良ければ、とかもないです。全教科満遍なく悪い。大敗も大敗。受ける前は五分五分かな、とか思ってましたが全然そんなことはなかったですね。全部順当に足りない。医学科志望の人間の点数じゃありません。まさに記念受験。
まぐれ合格はあってもまぐれ不合格はない。原因ばかりの妥当な不合格。勉強しているふりをいくらやったところで実力が伸びるわけがない。当然の結果です。
今までまともに勉強で努力をせずに生きてきた人間が、急に独学でちょっとやったところでどうにかなるわけがありません。そもそも勉強のやり方すらちゃんと定まってなくてふらふらしていたのに。
勉強ごっこをしていただけの1年間。
勉強するために勉強していただけの1年間。
反面教師とするしか価値のない無駄な1年間。
これで楽しかった高校も卒業。晴れて無職、一家のお荷物です。
~浪人~
いよいよ高1から夢にまで見た浪人生です。
新年度恒例、上から読んでも下から読んでも駿台ガイダンスを受け、テキストをもらい、授業が始まります。
今年は”合格するため”に勉強する。今年は去年と違って本当に後がありません。十分な覚悟を決める時です。哀れな僕もようやく自分の過ちに気づきます。まずすべきことは去年の自分を反省することです。
去年は参考書を買いすぎました。今年はとにかく使う参考書を減らす、まずは予備校のテキストからちゃんとやる。
去年は何も考えずに問題に取り組みすぎました。今年は学んだこと、理解したこと、考えたことをノートの余白に書きまくる。
去年は問題を解くばかりで何も学んでいませんでした。今年は解いたら復習で今まで何回も解いた参考書の関連問題を解きなおす、数学で間違えたら模範解答を一度写経する。その問題を他人に説明できるか自問自答する。
他にも色々ありますが、とにかく授業1コマごと、問題1問ごとに必ず1歩前に進む、どれも無駄にしないで過ごすように決めました。
また何よりも、去年は心から合格を目指していませんでした。本気でやっていないのに結果が出ないのは明らかです。今年は合格を目指す。
ここでようやく、ごっこ遊びから受験勉強へと昇華します。
4月、5月、6月、浪人してからしばらく経つと自分が社会のレールから外れているという事実が絶えず胸を刺してきます。苦しくても、しんどくても、勉強しかやることがない。何より今の自分は勉強しなければ生きる価値はない。勉強しないなら死ね。
運よく勉強は嫌いではなかったので、勉強をしている間はそれなりに楽しくやっていました。ですが、毎日のように1日中勉強は無理ですし、当然体調が悪くてできない日もあります。
そんな時にやってくる虚無感、無力感、親への申し訳なさ。
偶のYouTubeで空費してしまう時間。一体何をやっているんだ。自分で選んだ道なのに
とにかく机に向かって気を紛らわせる。後ろを見るな。勉強しろ、逃げるな。今年落ちたら全てが終わる。
眩しい高校生と違って、社会の底辺たる浪人生の日々に語るほどの大きな出来事はありません。毎日粛々と予備校に通い、授業を受け、合間は自習をし、家に帰る。その繰り返し。授業の合間も昼休みもずっと勉強をしていたため、家族以外誰とも喋らない日ばかり。
友達もほぼいない僕の娯楽は、校舎の周りを最短ルートで1周散歩すること。たまに数少ない友達と公園でご飯を食べること。あとは帰りの電車で時たま本を読むこと。物語の中を泳ぐ時だけは現実を忘れることができます。
読書は最も手っ取り早い現実逃避です。
1年は短いようで長い。そのため現役の頃と違い、メリハリのため家ではゆっくりすると決めていました。偶に勉強できれば万々歳。できない日も自分を赦す。行事もイベントもないので単調な毎日、緩急をつけないと持ちません。なので現役は平均13時間くらい勉強していたと思いますが、浪人は11時間程度しかしていません。
少ないけど量より質、今周りより少なくても、細く長く続けて1年経って合計が多く、質で勝ればいい、と思って勉強していました。
浪人期の生活リズムは
6:30起床
7:30出発
9:00駿台到着
18:00駿台出発
19:30帰宅
23:00就寝
とか、確か。
浪人生になっても相も変わらず、風邪は引きまくってました。今思うと運動不足、栄養不足です。ご飯を食べるのも鬱陶しくて、予備校では自習室で勉強しながらおにぎりだけ食べてました。せめて朝と夜くらいは沢山食べるべきでしたが、追い込まれた人間はそんな簡単なことにすら中々気づけません。
前期も後半に入り、この辺りで最初の駿台全国が返ってきたはず。
判定はC。悪い。残念ながら落ちてからようやく受験生になった愚かな人間の上にはまだまだ大勢います。
京医の判定は悪いですが、これでも理三と京医以外の全大学の全学部学科がA判定です。見上げる山頂はまだ遥か雲上です。
また、現役の際、30年近く京医を受けた先輩がおらず、入試情報が全く手に入りませんでした。そのため、出願し、書類が届いてから初めて志願理由書の形式を知ることになり、直前期に大慌てして、2,3日を費やすことになりました。
その反省を活かして、この頃には志願理由書をほぼ書き終わらせていました。早めに取り掛かり、夏休み、後期にそれぞれもう一度読み直して推敲し、年内には完成させ、直前期に勉強に専念できる体制を整えます。
前期も終わり8月、夏期講習の時期です。
僕は3個程しか取ってなかったので自習メインです。前期の復習を中心として過去問を解いたり、演習をしたりします。現役の時に散らかっていた知識が段々まとまってきます。楽しくなってきた。
また、ここでも去年の反省を活かし、長期休みは毎日勉強ノートを取るようにしていました。今日やったこと、何を学んだか、何が悪かったか、明日は何をするかを振り返る。
そしてこの辺りで初めての冠模試があります。
結果はD。去年と同じ?何やってるの?やめたら?
夏休みを終え後期。
またしても体調不良。9月あたりに体調を激崩しして寝込みます。寝込んでいても模試はやってくるわけで、この時受けた2つくらいはE取りました。早く体調治す、体調悪いんだからEでも仕方ない、大丈夫。
しないといけない、でもできない、わかってる。毎日少しでもやる。できない日があってもしょうがない。
現役は模試を受けなさ過ぎて本番慣れが全然できていませんでした。そのため浪人の後期は模試を受けまくりました。
模試は本番の予行練習です。当日食べるご飯、カフェインを取るタイミング、仮眠の時間、問題の解き方、問題を解く順番、余白の使い方、図の書き方、細かい箇所まで拘って色々試します。練習は本番のように、本番は練習のように。他の予備校の京大模試も受けましたし、校内割で安かったので九大実戦や神大実戦も受けました。
九大実戦は医学科のA判定の偏差値+7とかで2位。普段見ない判定と偏差値で嬉しい。
体調も少し回復してついに冬の冠模試がやってきます。この頃にはようやく自分の中で勉強法が定まって「よし、あとはこれを最後まで続けるだけだ、」と自信を持てるようになってきました。参考書もこれをやる、と決めてそれを中心に過去問などの演習を行い、復習をする。数学は今まで習った知識をまとめた解法ノートを作る。
迎えた11月のオープン、試験終了。それなり。
ついにA判定。
いよいよ京医が現実的になってきた。
でも実戦はC。全然安定しない。
後期始まってすぐの体調不良、数多の模試を超え、この頃には部活をしていた時より体重は5キロ減っていました。
”あと少し、逃げるな”
いよいよ2回目の共テが迫ってきます。
京医は共テ:二次=1:4 二次勝負です。
共テの社会は4月から、国語は12月から勉強を始め、他は年明けから対策を始めました。
しかしここにきて、共テ5日前にまたも体調を崩します。しかも1年の中でもかなり重めの体調不良です。本当に直前にも関わらず2,3日ほぼ勉強時間0、やばいやばいやばい。なんとか体調は間に合わせましたが、直前に研ぐべき試験の感覚は錆びついてしまっています。
なぜか1年もあったのに今年も満を持していません。とはいえ1年間勉強してきました。そんな数日で変わるわけがない、と思って望みました。
共テ当日。覚悟の無い今までの受験の経験から、僕はあまり緊張しないタイプ、と思い込んでいました。
しかし迎えた本番、現役のそれとは全くの別物。意識しないようにしても、落ちたら死ぬ、という意識が肩にのしかかってきます。背負っているものが違う。落ちたら全てが終わる。親に合わせる顔がなくなる。失敗するわけにはいかない。絶対にミスできない。
背負った覚悟と責任に比例して、膨大な緊張感が押し潰さんばかりに襲ってきます。
ここで初めて浪人すれば単に2回目のチャンスがあるわけじゃない、と反省しました。同じ心持ちで実力だけ上がって2回目のチャンスを貰えるわけではない。どこまで勉強してもチラつく現役の不合格と、次はないという重圧。空気が薄い。胸の奥が握りつぶされそうな感覚。
僕の緊張を他所に問題は配られ試験は始まります。
1日目、テスト久々で感覚が戻らない。やばい、ぬるっと国語と倫政終わった。いけたと思ってるけどまずい、このままだと引きずられる。切り替え、切り替え、英語は頑張ろう。よし英語、見直しもしっかりした、なんとかなったはず。
2日目、昨日の分取り返さないとまずい。今年は簡単になってほしい。数学馬鹿にしてる?全問題あったはずの小問1個削った?物理も超簡単、ありがたい。
とか思いながら迎えた2日目最後、化学。僕はいつも周りが気になるので試験は全て後ろから解いています。きもい。化学もいつも通り後ろから解いていたわけですが、その日ページを開く場所を間違えて大問4から解き始めていました。しかも二次の勉強のしすぎて「化学の大問が4個」に全く違和感を覚えず、1つ解き忘れたまま最後の30分間、大問4つ、80点分を何度も何度も見直ししていました。
気づいたのは終了5前です。
「もう訂正する時間もない、2日間長かった。」
ふと問題用紙をめくります。
「ん、なにこれ、、、大問5?、、、、、あっ、」
「やめ」
20点飛びました。
待望の結果は
国:156 1A:100 2B:97 物:100 化:85 R:92 L:91 倫政:68
計789(87.6%)
現役+22点
”””””1年間何やってた?”””””
案の定国語と倫政やらかしてる。英語凡ミスしすぎ。2Bも30分以上見直して2問もミス。
合計9割すら届かない。あまりにも低い。当然E判定です。
傾斜をかけると二次の配点で現役から上がったのは1250点分の2点。難易度も考えれば悪化しています。1年間で受けた模試を合わせて下から数えてすぐの点数です。本当に何をやってるんだ。
(化学は20点分解き忘れたけど得点調整で+5点来ました)
現役と違ってE判定で直前期を迎えたわけですが、二次の勉強ばかりしていたので二次には自信がありました。いよいよ最後の追い込みです。この時は自信半分、自己暗示半分で「当然受かるに決まっている。」的なことを毎日言いまくってました。
現役は滑り止めを受けずに突撃しましたが、流石に浪人は保険を用意しました。選んだのは国際医療福祉大学です。
ここは私立ですが、1次試験で受験者約3000人中上位20人に入れば入学金、授業料6年分の1,800万が免除です。基本後期入試が滑り止めとなる医学科受験において、二次前に結果がわかり、一番上の特待にさえ入れば金銭面でも優れるこの大学は滑り止めとしては最適です。ですがここの二次試験は全国の医学科で最も長い面接時間50分を誇ります。圧迫ではありませんが嫌な人は嫌かもしれません。
ここでも数学のマークミスで全体の1/4を飛ばしましたが、上位20人には入っていたみたいで特待を頂けました。
またも本番でミスをしましたが、一応滑り止めは確保です。全く行く気はなかったですが。
かといって京医に落ちたら二浪は無理ですし、落ちたらもう死ぬしかありません。
いよいよ2月です。
去年の反省を活かし、今年の直前期は大事に過ごします。予備校の予想問題は解かない、ひたすら既に何周もしている過去問を解く。その問題を本番に対峙した想定で、如何にして解くか自分の中で何度も練る。でも過去問演習ばかりに走らない。演習と復習は1対1。毎日何を学んだかノートに記録する。
特に数学は過去問の解答をまず写経し、余白に試験本番ならどう解くか、解法ノートの何番の知識を使っているかを書き込み、お手製の解答解説を作成していました。とにかく本番を想定して、閃きに頼らず点を取るために何ができるかを考えます。運じゃなくて実力で捻じ伏せる。
英語は尊敬していた先生に倣い、過去問の全訳をしていました。日本語に起こしてみると意外と曖昧な部分や苦戦する箇所も多く、これはかなりおすすめの勉強法です。追加で1年間通して行きの電車で英字新聞を読み、帰りはずっとTEDを見ていました。
また、僕の課題は何よりも体調です。ここでようやく自分が栄養不足、運動不足なことに気づき、ちゃんとご飯を食べるようになりました。そしてR-1を飲んで免疫力を高め、空き時間は走って体を動かします。
加えて本番を想定して生活リズムを整えます。起きる時間、寝る時間、仮眠を取るタイミングを揃え、本番の試験が行われている時間に最も集中力が高まるようにする。一切の隙を作らない。必ず合格する。
大事にしても40日はあっという間です。
遂に二次試験に臨みます。実力に一抹の不安もありません。あとは合格を確認しに行くだけ。
昨年思ったより移動で疲弊したことや、今年の私立入試の際に飛行機が大雪でストップし、前日にあたふたしたことなどを踏まえ、2日前に京都入りしました。
前日は勉強の合間に、平安神宮あたりを散歩ついでに神社3個くらい周り、俺を受からせろ、とお願いと称した命令をします。
ここで、今年合格するための皮算用をしておきます。
受かるだけなら国60%、数理80%、英75%で去年の合格点+50点くらいです。とにかく合格点を超えることだけを目指す受験は知りませんが、確実に合格するにはこれだと足りません。数理の1問でも事故れば一気に危うくなります。30~40点飛びますから。
そもそも8割狙って8割取れるなら苦労はしませんし、大体ミスるわけですから、狙いはもう少し上。国英で8割越えは中々難しいですが、そこまで大コケする科目でもありません。確実合格のためあと少し点数を盛るには数理で9割程狙う必要があります。9割取るなら数は5完半、理は大問ごとに小問1つ程度しかミスは許されません。
これで国60%、数理90%、英75%、ようやく去年の合格点+100点程。このくらいを目指せば少々ミスしても安定して合格できそうです。共テで95%くらい取れていれば数理85%で十分でしたが。
と、皮算用をしましたが、結局は相対評価です。2020のような急な難化もあり得ますから、その場で取るべき問題を見極めて、必要な割合を判断するのが肝要。
さて、これを踏まえて迎えた当日。
ホテルは四条烏丸の辺りだったので、朝は鴨川沿いをクラシックを聴きながら1時間ほど歩いて会場に向かいました。当日は受験生で溢れかえる公共交通機関でストレスを受けながら勉強するよりも、歩いて体を動かし、クラシックで脳を活性化させる方が合格につながるとの判断です。
この日はちょうど寒波が直撃しており、微かに雪の舞う鴨川沿いを凍えながら歩き、会場に向かいます。
試験会場にやってきます。奇しくも現役で受けた会場と同じです。
この3日間で人生の全てが決まります。
この1年間の価値が決まります。
この努力が報われるものだったのか否かが決まります。
ペンを握る手が震える。落ちれば死ぬ。でも100回受けて100回受かるための努力はしてきた。学力だけじゃなくて試験本番で1点でも多くとるための実力もつけてきた。難化でも易化でも必ず合格する。全て叩き潰す。
今度こそ。今度こそ。今度こそ。
現役は満を持さずに臨みました。共通テストは満を持せずに臨みました。
実力も万全。体調も万全。
二次試験、今度こそ、満を持して臨みます。
1日目、国語、例のごとく感触なし。6割欲しい。 数学、大問1~4、簡単、ミスしたら落ちる。せっかく確率対策したのになんだこの簡単な問題。大問5、これが合否を分けるはず、大問6、むずそう、捨て問かな。でも5,6両方ともやったことある問題の類題。回転体の積分もチェビシェフも何回も解いた。いける。 6問全て解ききる、見直しもした。試験終了。手ごたえ6完。勝った。
2日目、理科、ほぼ消化試合。油断するな。物理ちょっとむずい、でも解ける、いける。化学は簡単そう。有機なぜかわからないまずいまずいまずい。試験終了。有機簡単なのに焦って落とした、でも数学の分で耐えるはず、焦るな。二次の英語は運じゃない。今まで散々やってきた。 英語、昔の問題形式に戻ってる。ただの和訳が一番ありがたい。これなら大丈夫だ。
全科目終了。勝った。
3日目、面接を無難にこなし、帰路に就く。
面接後、遅れて京都に来ていた母と京都に住む叔母とちょっといいお寿司を食べました。疲れすぎて何も味がしませんでした。今まで食べた中で一番高いお寿司なのに、一番美味しくなかった。
後日、予備校の解答を元にした自己採点は大体1000点くらい。去年の最低点+80点程です。数学が皮算用より高そう、理科は低そう。ちょうど狙った点数からいい感じに下がったくらいです。流石に受かったはず、でも若干易化したから余裕合格ではなさそう。
合格を確信し呑気に過ごした2週間。続々とされる合格発表。浪人していた高校の友達の合格ストーリーが上がります。嬉しい。
迎えた3月10日。いよいよ前期試験の合格発表最終日、残すは東大、京大のみです。
前日まで元気だったのに当日になって死ぬほど緊張し始めました。あと少しで全てが決まる。番号あってくれ、あってくれ、あってくれ。
12:00、大量のアクセスで重い、早く早く早く早く早く
12:04 サイトが開く、自分の番号を探す、、、、、
ある
もう一回見る、ある、ある、、、!
自室を出て母の元へ、
「受かった、」
「よかった、お疲れ様、」
意外と泣きませんでした。
逃げ出さなくてよかった。死なずに済んでよかった。
たったの1年ちょっとですが、あまりにも長かった僕の受験生活もやっと終わりました。
開示は
国:50/100 数:195/200 理:148/200 英:117/150
傾斜後+共テで989.12/1250 (最低点+53.25)
現役+184.87
国理が自己採よりも低く、数英が高くてちょうど想定していた点数くらい。
理科悪過ぎで悲しい。先生たちごめん。合計1,000点も超えたかった。平均にも負けた。共テと理科が悪かったせい。
しかも数学の大問5で立式まであってたのに超簡単な積分計算間違えて満点逃した。悔しい。
結局国語は共テも二次も現役より悪い。国語は受験的な解き方より、たくさん読書して素直に解く方がいいのでは、?
試験中は数学の大問6は捨て問と思っていたのに、蓋を開けてみれば合格者で数学満点は20人以上。
あれだけ勉強してもやっと京医の中の下。凡人の付け焼刃じゃこの程度でしょう。
結局共テも、私大も、二次も、失敗ばかり、ずっと本番に弱い。
それでも合格は合格。ギリギリだろうが余裕だろうが受かれば全てが赦されます。
振り返って、僕の受験生活に点数をつけるならば70点でしょうか。
二次試験本番、合格はできると信じて疑わなかったですが、受験生活で最善を尽くしてやれるだけやったか、と問われれば、首を縦に振ることはできません。しかし、もっとやれただろうと思う反面、同じ人間がその日、その瞬間をやり直しても同じことをするだろう、というのが信条なので、僕の受験生活は何度繰り返しても70点でしょう。そのため満足はしていませんが、後悔はありません。
それなりの自頭で、それなりの努力をして、それなりの結果を得た70点の受験生活かなと思います。
さて、4月まで残り3週間、慌てて新生活の準備を整えます。
これでようやく晴れて僕も京大生。
4月1日、出町柳駅を降りた先の、晴れた空と鴨川沿いの桜は綺麗だった。
おわり。
最後に、僕が予備校でお世話になった数学科の恩師、吉田先生に頂いた言葉を紹介します。
二次試験前、お守り代わりに僕の数学の解法ノートの1ページ目に書いていただきました。
共テ、二次合わせて数学で392/400は間違いなくこの吉田先生のおかげです。もし出会っていなければ、僕は今ここにいないと思います。
先生としての実力だけでなく、人間的にも本当に素敵な方でした。超人気講師で多忙にも関わらず、いつも優しく質問に答えてくださり、常に謙虚でよく生徒への感謝を口にされていました。今でも一番尊敬する方です。
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難題の有る人生は”有難い人生”
難題の無い人生は”無難な人生”
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思えば、僕のこれまでの人生は有難く、”有難い”人生です。
私立じゃなくても、鉄緑会じゃなくても、僕は常に恵まれた環境にいたと自信を持って言えます。
もちろん勉強以外の面も有難いことばかりです。
僕は自分の力で合格したのではなく、周りの力で合格させてもらいました。
勉強させてもらった、努力させてもらった、合格させてもらった。
僕は自頭だけなら間違いなく京医に受かるほど賢くありません。それを覆せる努力と、努力させてもらえる有難い環境のおかげで、今ここにいます。
最初に述べた通り、母には感謝してもしきれません。
これから先、後ろ指の指されない人間になることが一番の恩返しだと思っています。今後の大学生活、そして卒業してからの人生が重要です。
目の前の救える命が、救えた命にならないために、今精一杯に勉強するつもりです。
母には今まで苦労を掛けた分、将来は思い切り楽をさせてあげたいです。
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
明日、難題に赴く受験生の有難い人生に、温かな春光が差すことを願って。
2024→2025 STARDOM