お疲れ様です。
1回生の川嵜です。稲西くんがお休みだったので、代わりに書きます。
お腹の風邪が流行っているようなので、体調管理頑張りましょう!
今日のメニューです。
![](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/b6c1786368aaf9048d7d4eee43e5d54e/1739172369)
ゆうごさん、ゆきかさん、たっぴさんふみえりくたろう、ありがとうございました。
テストが終わり、肩が復活してきて、気持ちよく泳げました。
今週は、真面目に中堂泳ぎを習得しようと思い、いろいろドリルやったりしてます。
タイミングはだいぶ合ってきましたが、如何せんテンポが遅いので、もどかしいです。
それでは、合格体験記に移ります。
時系列に沿って思い出しながら書きました。
意外と長くなってしまいました。
小さい頃からお勉強は割と得意で、小学校の時のテストは大体100点でした。僕の頑張りの源はというと、(今思うと、なかなかえげつない制度ですが)100点のテスト1枚につき親が100円くれるという、テスト換金制度でした。
テストに怯える友達の中で、僕は一人給料日を心待ちにし、物凄い集中力を発揮して毎回100円をゲットしていました。学期末に先生が溜め込んだテストを受け取る時、それは半年に1度のボーナスのような気分でした。
中学生になり、テストが難しくなると、換金率も5倍になりました。90点でも100円ぐらい欲しいところですが、どうも親は満点へのこだわりが強く、100点以外は金になりませんでした。
それでも、僕はへこたれず、テスト勉強を真面目にして毎回1500円ぐらい稼ぎ、学年の順位も1番か2番でした。
高校は新潟で1番賢い、新潟高校に入りました。500円への凄まじい執念により身につけた学力はなかなかのもので、最初に受けたテストは学年で5番ぐらいでした。
しかし、さすがに高校ではテスト換金制度は廃止され、遅めの成長期に突入したことで、
背伸びる→眠い→寝る→背伸びる→眠い...
という、無限睡眠サイクルに陥ってしまい、だんだん落ちこぼれていきました。
Woo 授業をサボって
陽の当たる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
たばこのけむり とても青くて「トランジスタラジオ」より
みたいな高校生活を夢に見ていたのに、屋上は封鎖されてるし、タバコも吸われへんし、何より周りが、勉強!勉強!といった感じだったのも、僕を勉強から遠ざけました。
受験ムードが高まってきたのは、2年の終わり頃でした。「高三0学期」と称して、学年集会が開かれ、先生が受験期の大切さを説くのを聞いていると、「偏差値が重要なんじゃない」と口では言っていながら、「いい学校・いい会社・いい人生」という幻想に呑み込まれてしまうような、強烈なおぞましさを覚えました。
この怪しげな集会をきっかけに、「こんなモンキービジネスからはトンズラするズラ!」と決意したのでした。
そんなわけで、僕はそれまで通り暮らしていましたが、大勢の人々はというと、例の決起集会で気合が入ったのかますますお勉強に励み、どんどん差が開いていきました。
3年生になった頃には、理数科の中で、模試は真ん中ぐらい、定期テストは下から3番目とかでした。進級と同時に、志望校を考えるようになりました。
成績はイマイチでしたが、まだ1年あるし、と思って京大か阪大を考えていました。
早いとこ関西に行かなあかん、という思いはあったので(高校も新潟高校に落ちたら西大和学園に行くつもりでした)東大は眼中にありませんでした。東大もこんなアホの眼中に入れられてたまるか、と思っていたでしょうが。
第一志望は、京大の理学部にしました。「いい学校・いい会社・いい人生」から1番縁遠い気がしたからです。
第二志望は阪大の基礎工。第三志望は京大の地球工にしていました。2と3が逆な気もしますが、1、2どっちも京大にして、めちゃくちゃ京大行きたい奴みたいに思われるのが嫌だったんでしょう。
実は、僕も高校1、2年の時は環境問題に興味があった、というより、自分の将来への不安と、どうしてみんな地球の問題にそんなに無関心なんだ?という苛立ちが気づかないうちに一緒くたになっていました。(グボさんの合格日記と少し重なるところがあるかもしれません。グボさんはあんま読まれたくないみたいなので読み返さないであげてください)
グボさんは今もえこみっとで大活躍ですが、僕は3年生になった頃には、
二人が愛し合えないのに
この星は愛せない
「世の中が悪くなっていく」より
と口ずさみながら、まずは自分自身が誰かを愛せるだけの器量のある男になろう、という結論に至り、環境問題は一旦忘れてしまいました。第三志望の地球工はその名残です。
志望校が決まったからといって、すぐにやる気が出ることはなく、ゴールデンウィークになったら勉強しよう、と思っていました。
GW初日から張り切って勉強したら、その日から腕が痺れるようになり、泳げなくなってしまいました。病院に行ったら「胸郭出口症候群」と言われました。
水泳は高校で終わり、と思っていたので、ラストイヤーは200Frでの北信越出場を目標に、結構気合い入ってました。それが急に泳げなくなったので、さすがにショックでした。
病は気からと言いますが、その逆もまた然りで、肩の調子が悪いと気分も落ち込んでしまい、水泳にも勉強にも身が入らないまま6月の県大会を迎えました。
最後の県大会では、ほとんど泳いでいなかったのに、週3回の筋トレとラストレースパワーで、なぜかベストが出ました。決勝には0.02秒届きませんでしたが、久しぶりに心の底から清々しい気持ちを味わえました。
また、大会期間中に「14歳からの社会学」という本を読んだことで、(恥ずかしながら)初めて生々しく親への感謝を感じ、同時に、受験に向き合う上での指針を得ました。
受験はなりすましで乗り越えろ
です。これは、立派な受験生になってしまうことを恐れて、全く勉強が手につかないでいた僕の悩みを一挙に解決してしまう言葉でした。受験にマジガチにならなければ大丈夫、と思うことで安心して勉強できるようになりました。
水泳が終わると、東進に入りました。
あと、ピアノを練習し始めました。
ピアノはド素人だったので、受験までにBooker T. & the M.G'sの「Green Onions」を弾けるようになることを目標にしました。
夏休みが始まると、浪人生でもないのに、よく散歩をするようになりました。海辺のワインディング・ロードを歩いたり、5kmぐらい離れたバッティングセンターまで歩いて行ったりしていました。
騒がしいバッティングセンターを出てすぐのところにある、静かな田んぼ道を歩くのが、好きでした。
ある日、この道を歩きながら、
目標に向かって舵をとりながら、最短距離で進むよりも、その時向いている方向に全力でエンジンをふかしたいなぁ
と思ったのを(思っただけですが)覚えています。
勉強の方は、東進で「過去問対策講座」みたいなのを受講して、これが5教科10年分で14万円!とかだったので、全然解けませんでしたが、元を取らなければ、と3、4年分ぐらいやりました。
ピアノは、譜面を手に入れるも、譜面通り弾くだけではどうもノリが出ない、ということで、原曲を繰り返し聴き、その感じで弾けるように練習しました。ピアノをやっていた母には「なにイキっとんねん、まずは譜面や」と言われましたが。
夏休みに受けた模試は、駿台、河合、東進のやつで、1個だけC判定で他はD判定だったと思います。C判定があって少し喜びましたが、親には心配かけないようにと思い、「B寄りのCやったわ」ぐらいの感じで言ってました。
三者面談で模試の成績がバレるのを恐れていましたが、なぜか担任の先生は、京大模試には一切触れず、C判定の進研模試を見せて言いました。
「A判定の人たちは東大を受けるので、C判定は実質B判定。そして、新潟高校生のB判定は実質A判定!」
と意味不明なコンボに、親は若干困惑しながらも、まあまあ順調そうだ、と一安心したようでした。
夏休みが明けてからは、新しい問題を解くのはしんどかったので、1日気合い入れて2個ぐらい過去問解いたら3日かけてじっくり復習する、というサイクルで勉強しました。これで結構力がついたと思います。
理科は教科書の内容が身についていなかったので、自分なりに分かったと思えるまでじっくり教科書を読み込むことで、段々解ける問題が増えていきました。
国語は結構感動する文章もあって、好きでした。
英語は腐ってもベンジャミンなのでまあまあいけました。
数学はいつになっても分かるようになる気配がなく、模試でも過去問でも良くて3割とかでしたが、本気出せばなんとかなるでしょう、と思ってました。
徐々に勉強が板についてきて、意気揚々と受けた2回目の駿台か河合の京大模試は、D判定でした。
もう片方の京大模試の前に、家庭内(?)でショッキングな出来事があり、茫然自失となって受けた方もD判定でした。
親にD判定なんか言ったら卒倒しかねなかったので、「最近はBかCやわ」と言ってました。
11月は例のショック以降、家でも学校でも気丈に振る舞ってはいましたが、何をするにも力が入らず、毎朝学校に遅刻し、先生に怒鳴られても何も聞こえず、惰性でしていた昼休みのバスケもシュートはリングにかすりもせず、ただ時間だけが過ぎていきました。
この期間は、今となっては貴重な経験、とは決して言えませんが、僕に大きな影響を与えたのは確かで、この前後で、ものの感じ方が変わった気がします。
12月になると、指定校などで進路が決まった友達と過ごしているうちに、普通の学校生活に戻った感じがして、段々元気が出てきました。
ピアノも、ついに「Green onions」が最後まで弾けるようになり、オリジナルのパートも作り終えて、大満足でした。
勉強は、共通テスト対策に移り、半分ぐらいは地理をしていました。
共通テスト本番は、大コケすることなく終わり、リサーチの判定はBでしたが、2ヶ月間ほとんど二次試験の勉強をしていなかったので、気合を入れ直してラストスパートするつもりでした。
しかし、共通テストで失敗した友達が、お父さんにハーモニカをプレゼントされたのを見て、僕も欲しくなり、すぐにハーモニカを買いに行きました。キーはDでした。
二次試験までの期間は、記憶力が限界に達したのか、新しく何かを覚えてもその分何かを忘れていっているような感覚になりました。数学も相変わらず、できるようになる気がしませんでした。
そのため、自分の実力はここまで、と割り切って、試験当日に頭がビンビンに冴えた状態になるように考えました。
まずは、「スタンフォード式最高の睡眠」に書いてあることを実行して、睡眠を整えました。これだけでかなり賢くなった気がしました。
そして、試験当日、心が凪いだ状態で受験できるように、受かっても落ちてもどっちも楽しそう、と思うよう自己暗示をかけました。
迎えた二次試験、京都に肌を馴染ませておこうと、前々泊しました。すると、本気で信じていた自己暗示が解けかけてしまい、もう1年新潟はイヤだ、という思いがよぎりました。
そこで、ついに、数学をなんとかせねば、という考えに至りました。(理学部は数学の配点が300点!もある)
愛用していた「微積分基礎の極意」「論理学で学ぶ数学」というイキった参考書を捨てて、お守りがわりに友達から借りてきていた、京大実践の過去問を2日間解きまくりました。
初めはいつも通り1問半ぐらいしか解けませんでしたが、4年、5年と解いていくうちに、なんとまあ、4問も完答できるようになったのです!不思議な感覚でした。この感覚を試験の時まで維持できるよう、問題を解き続けました。
初日は平常心で受けられました。2日目は、少し欲が出てしまいましたが、頭は冴えていました。
手応えは、50-50という感じでした。
試験が終わると、祖父母の家で祝杯をあげました。祝われているうちに合格してるんじゃないか、という気がしてきました。祖父からは、
元気ソウデアル、動揺シテイル様子ハナシ
と観察結果が親に送られていたようでした。
梅田で2本目のハーモニカ(キーはA)を買って家に帰りました。
合格発表までは、結構緊張していた気がします。友達と浜辺でハーモニカ吹いたりして気を紛らわしてたと思います。
発表の日はリビングで家族揃って見ました。いざ自分の番号を見つけると、あぁ、大学生になるんか、という感じで、ちょっとだけ嬉しくて、でも妙に興奮してるみたいな、変な感じでした。
合格最低点+110ぐらい(アホ扱いされがちなので、自慢ですが)でしたが、問題が違ったり、腹が痛かったりしたら同じぐらいの点差で落ちることもあり得たと思います。
受験期を思い出しながら振り返ってみると、当時は自分のことで精一杯だったけれど、恵まれた環境にいたんだなあと、しみじみ思いました。これからも、謙虚に、一生懸命、優しく、いい加減に、過ごしていこうと思います。
2024-2025 stardom
1. 本当にいい文章をかくね