お疲れ様です。4回生の福田優二郎です。
・雑談1
昨日、大学院入試が終わりました。良い結果だと良いなあ。
自分の所属している研究室は倍率1倍なので早々落ちないと言われてきましたが、終わってみると少し不安なところもあります。
大問2つ解けてないし、、、、笑
また合格だけでなく、入試の点数が良いと来年度の奨学金の案内が回ってきやすいと教授から聞いたので点数も欲しいです。受かってたらの話ですが。
・雑談2
これも昨日ですが、嵯峨野、西京、洛北高校水泳部との交流がありました。
協力してくれた皆さまありがとうございました。自分は入試があったので最初は参加できませんでしたが準備には携わらせていただきました。
まさか吉田部長と西前副部長の研究室を訪問させていただけるなんて!連絡してみて良かったです。
昨日の交流で高校生の将来像が少しでも明瞭になればこの上なく嬉しいです。
話を戻します。引退日記です。
ずっと何を書こうか悩んでいたのですが、あっという間に担当日が来てしまいました。
色々考えた末、
自分のこれまでの競泳生活、思っていたことをありのまま話そうと思います。自分の話ばっかりになります。大学水泳に限らず様々な話もあり関係ない話も多いです。すみません。
自分の感情を文章に載せるのは苦手だし、僕の過去は誇れるものではないのですが、どうか最後まで読んでくださると幸いです。
①京大水泳部に入部するまでの話
皆さんには関係のない話ですが、自分にとっては大事なので書かせてください。
運動が得意とは言えなかった自分は中学時代あまり部活に対して関心がありませんでした。
友達が入るからという理由で入部したサッカー部に入っていましたが、活躍できる才能は勿論なく、それを補う努力もせず、2年生から幽霊部員になりました。
ただ、3年生になり友人たちが引退していく時の満足そうな顔、悔しそうな顔、泣いている顔を見ていると、徐々にこれまでの自分の怠惰な、怠惰な、怠惰な学生生活を後悔するようになりました。
「自分もそうなりたい、高校ではちゃんと部活をしよう」と思い、高校では新たに競泳の世界に飛び込みました。
高校からは変わってそれなりに真面目に練習するようになりました。
初心者だから泳ぐほどタイムは上がるので競泳を楽しいと感じていました。
真面目さを認められたのか理由はわからないですが、遅いながらも1年生の冬にはキャプテンを任されるようになりました。(速い人はクラブチームで練習していたのでキャプテンにはなれないシステムでした)
ただキャプテンになってから顧問に叱られ始めて、自分は真面目なだけであって、能力や才能がないことに気づき始めました。
練習でサボっている人がいても嫌われるのが怖くて言えない、キャプテンとして話すときにうまく話せない、そして泳力もないから背中で語ることもできない。そんな姿が嫌だと思っていたらまた別のことで顧問に叱られる。
キャプテンだった1年間は本当にたくさん顧問に叱られました。当時は嫌で仕方なかったです。(今振り返ると顧問によって少しずつ自分は成長させてもらうことができたと思っています。本当に感謝してます)
選手としての目標は個人で東海総体に出場することでした。(都会の県総体と違ってレベルは異なりますよ)
東海総体に進めないと県総体で引退することになります。まず予選で10人が選ばれ、決勝で8位以内だったら東海総体に出れるというようなシステムでした。
高3の最後の総体で絶対に活躍したい、その気持ちで1年間努力しましたが、結果は予選11位でした。
本当に悔しくて、情けなくて、カッコ悪くてしばらく動けなかったことを覚えています。しかも、その悔しさをもう晴らす試合もない。
あまりに悔しくて、もう競泳なんて(そして自分なんて)嫌いだと思ってた県総体2日目でしたが、その日突然リレーメンバーの人から東海総体で4継に出て欲しいとお願いされました。
個人の100Frのタイムがリレー出てる人とタイムがほとんど同じだから、みたいな理由を言われた気がします。ただ実際は温情だったと思います。嬉しさと、申し訳なさが混ざった複雑な感情でしたが、その話をありがたく受け入れ、リレー(4k,なぜか8kも)で東海総体に出場させてもらいました。
せっかく頂いた枠の責任を全うするためにもどちらも努力し、そしてベストを出すことができました。こうして僕は高校水泳を引退しました。
「終わりよければすべて良し」という言葉があるように、自分は数えきれないほど叱られたり、悔しい結果を出しましたが、東海総体の思い出があるから引退してからも競泳を好きであり続けることができました。
その時のリレーメンバーである大世、稀帆、栞優、そして幸登には本当に感謝しています。大学生になっても競泳を続けることができたのは彼らのおかげです。
長くなりました。大学までの競泳生活をまとめると
・怠惰な生活から抜け出すために競泳を始めました
・リーダーとしての素質のなさを自覚しました
・リレーには特別な思いがあります
です。
そして受験が終わり、大学生が始まろうとしている時にコロナで活動制限を受けました。
一人暮らしも始まりました。ですが初めての一人暮らしで、さらに外出制限を律儀に守っていた自分はすぐに病みました。
そんな大学1回生前期ではまた中学時代のような怠惰な生活に逆戻りしました。
しかし、後期になると京大水泳部が活動していると目にし、怠惰な生活から脱するため、そしてまたあの時の喜びを感じたいと思いに京大水泳部に入りました。
②京大水泳部に入ってからの話
①が長くてごめんなさい。ここからが本題です。
・2-1 主将として
入部してから1ヶ月ほど経ち、どのような役職があり、どのように運営されているのかを何となく理解し始めた時に裕一朗からこんなことを言われました。
「将来、俺とお前で主将主任をやることになると思う」
その後に理由も言ってくれました。裕一朗がそのように言う理由は理解していました。でも、僕はすぐには受け入れることができませんでした。
なぜなら高校でキャプテンをした経験から自分がリーダーに向いていないのだろうと考えていたからです。
その悩みはずっと僕から消えることはないまま2回生の冬、誰が主任主将をするのか決める日(by電話)になりました。
裕一朗は自分から主任に立候補しました。ただ、自分は立候補ではなくて日奈子たちから推薦されて主将になりました。情けないですよね。
ただ、主将になることが確定してから代替わりするまでもずっと自分は主将としてやっていけるんだろうかという不安は消えませんでした。
人前で話すのが苦手なのに話せるのか、練習の時に部員を鼓舞できるような存在になれるのか、OB・OGさんとうまく関われていけるのか、僕が部員をまとめる能力はないんじゃないか、そして良いチームを作れるのか。
チームを代表する立場なのにそんな不安がってどうするんだというのは頭では分かっていました。でもやっぱり、しばらくは主将として上手く立ち回れず、高校の時と同じような嫌な感情が押し寄せてきました。
11月になって1度トラブルがあって、裕一朗を叱った日がありました。もっと後輩の意見を聞け、厳しいだけじゃ誰もついてこない、などを裕一朗に対してかなり厳しく言いました。
でも、当時の僕はそんなことを言う資格はありませんでした。だって自分はそもそも主将として、リーダーとして動けていないことが多すぎたから。僕が動けていない中で裕一朗、ただ一人が動いていたことの大変さを理解すべきだった。
あの日、怒られるべきなのは自分でした。
トラブルが起こっていることに気づかない、気づくために動く努力さえ怠っていた自分が本当に情けなかったです。
その日から自分の中でようやく主将としての覚悟らしきものが決まり、自分の中にある不安を解決しようと努力をするようになりました。
小さなことでも良いから、チームを良くしようと努力することだけは諦めないようにしていました。
ただ、変わろうと努力をしてもすぐに結果が現れる訳ではないので、自分が主将として今日まで、上手く立ち回れていたかと言われたらYesと言えません。
相変わらず人前で話すのは緊張するし、後輩の意見を聞くのは難しいし、チームの運営(NFや合宿,それこそ昨日の高校生との交流とか)をする中で何度も部員や同期に迷惑をかけました。
努力しても足りなかった自分の力量のせいで迷惑をかけてしまい申し訳無かったと思っています。
ただ、こう思うのはまだ早いのかもしれませんが、主将という役職を一年間させてもらったことは自分にとって大きな成長のきっかけになりました。
チームを運営する難しさを実際に経験し、自分が未熟だと実感させられたからこそ、もっと人として成長したいと思えるようになりました。
1年間主将という大事な役割をさせてくださりありがとうございました。後少し引退まで日があるのでそれまでは責務を全うします。
・2-2 メニュー係、フリー面パートリーダーとして
光栄なことに、自分は主将という役割に加えてメニュー係もフリー面パートリーダーもやらせていただきました。
メニュー係としても、フリー面パートリーダーとしても自分の目標はほとんど同じで、「選手が自分から競泳に取り組んでくれること」でした。
メニューでは大事なところで頑張ってもらうように全部キツくするのではなくて緩急をつけたり、少しでも選手が頑張れるようにサイクルを調整したり、メニューの書き方やタイトルを工夫したりしていました。
パートミーティングでは選手が競泳について考えるきっかけになるようにと発表形式にしてみました。
結果として自分が掲げた目標に対して100%達成できたとは言えません(特に発表形式に関しては結局やらせているだけで、根本的解決には及ばなかったと思う)が、選手のうち誰か一人でも心持ちが変わっていれば良かったのかなあと思います。
また、1年間を通し約80個ものメニューを担当させてもらいました。メニュー作成は初心者で、内容が良く無かったものもありそうですが、どのメニューも真剣に作りました。
自分が作るこの一回のメニューが選手の成長という階段の1段になれるかもしれないと考えると無限にやる気が出てきました。
もちろん、メニューの良し悪しによって選手のベスト率を全部操作できるとは考えていないです。
選手がベストを出した時、それは紛れもなく選手自身が努力した結果です。ただ、その努力ができた環境要因の一つとして自分たちが作ったメニューがあったなら嬉しいです。
1年間ありがとうございました。自分が作ったメニューを選手が頑張っているのを見るととても嬉しく感じていました。
続きます→→
1. じろうさんの隣でじろうさんの日記を音読