京大水泳部練習日記(2022/3~)

引退日記 大坂栞

おつかれ様です
引退日記を担当します
チーフマネジャ大坂です


1つ上の代が引退してからあっという間に自分の引退でしたね~
時の流れが早くて驚きです



引退日記ってどーやって書くねんと思って先輩方の引退日記を読み返しましたが、ただただ胸が熱くなって構成に迷っただけでした。




拙い文章ですが、最後まで読んでくれたら嬉しいです!!
読んでくれない人もいると思うので先に簡潔になってしまいますが感謝だけ伝えさせてください




既に引退してしまった先輩方や他大学の方々、後輩の皆さん、同期、あらゆる形で私に関わってくれたみんなみんならぶです!
だーーーーいすきです!!!
沢山の人に出会い、支えられ今の自分があります
ありがとうございました!!!!!!!
先輩も同期も後輩も他大学の方もご飯行きましょー!!!







って感じで、ここからは
ぱたぱたと淡々と文章が続きますがご了承ください、読んでください。必ずや。






京大水泳部に入る前
小1から選手コース(育成コース)に入り、地獄のように泳いだ日々



みんなが放課後、楽しそうに公園に行く約束をしているのを横目に家に帰り
大泣きしながら祖母にプールまで連れて行ってもらい練習してましたね





3人のコーチが曜日固定でかわりばんこに教えてくれていて、小学生相手に容赦ないコーチばかりでしたが、どのコーチもめちゃくちゃ良いコーチばかりで大好きでした
一般のクラスが終わってから育成コースが始まるのですが、一般のクラスが1分でも伸びて練習時間が短くなることをみんなで願ったこと、
「今日、木曜やから〇〇コーチやん涙」とぐちぐち言いながら練習したこと、練習終わりのコーチとのサウナ、着替えた後の鬼ごっこが思い出ですね




しんどいなりに楽しんでいたと思います






年齢が上がり、選手コース内でもコースが上がり、トップコーチのクラスに入ってからがほんまにしんどかった





50×nで制限タイムが決められて制限を割れなかった本数25m30秒サークルで潜水とか100×30でIM専の人は全部Flyとか、、





もうほんまにこれでもかというほどの地獄





しかもこれらは今で言うメイン練習なのでこのメニューの前に100×4×3で1’15サークルとかね、






練習は鬼ほどしんどかったですが、お陰で割とどの試合に出ても決勝にいけたり、メダルとれたり



まあ人並みくらいには輝いていた時期でした




中2の府中で決勝にいけば近畿確定の予選前に緊張しすぎてコーチの前で大泣き
ほぼ泣きながら泳いで無事に近畿を決めました




あの時の緊張感、スタート台からの景色、近畿を決めた後の喜び
忘れないです



そんなこんなで中学水泳が良い感じで終わるかと思いきや




トップコーチが急遽海外で仕事をすることになり、新しく来たコーチのやり方と自分の考えが合わず。高3までスクールで続けるつもりでしたが、高校からは水泳部が強いところを選んでスクールは辞めようと決めました





そこから水泳を言い訳に逃げてきた勉強を始め、20時に練習を終えてから爆速で着替えて8:30-22:00で塾の自習室に篭もるという生活を始めました





小学生の頃からずば抜けて速い子がいて、その子と同じ専門だったこともあり「なんでそんなに遅いの?」と嫌味を言われることも多くて、




それがどんどん学年が上がり加速していっていた頃に私が勉強を始めたことで無条件に会話することが減り、なんというか、泳ぐことが好きだったのにこの頃は勉強している方が気持ちが楽でした




水泳と全く関係ない友達と生活する時間が増えたことで救われていた期間でした









そして、なんとか桃山学院に入学。



桃山は推薦でしか入れないアスリートクラスというものがあり、アスリートクラスは強化指定クラブというもので構成されていました
男子水泳部はその強化指定クラブの1つでした




要するに、周りはみんな推薦で入ってくるような水泳強者ばかり
女子や一部の男子は文理や国際クラスなど一般入試で入学した人で構成されていました





振り返ると、桃山時代の自分は今まで生きてきた中で1番嫌いな自分でした






高校1年の夏、リレーでインハイのチャンス
女子は人数が少なくリレーを組める4人ぴったりしかおらず、メンバー入りしました
1番速い子が留学に行く関係でリレーでのインハイは高1の1発勝負でした




本当に色んな人に応援してもらいましたが、
自分だけがインハイのレベルまで達せず逃しました。





関国の時、怜花にリレーで1人の責任になることなんてない、どんな状況でも4人の責任で4人のおかげやから
と本心で言いましたが





高校の時は本当に自分1人のせいでした。





あの時は悔しくて大号泣しましたが、今となれば実力と共にインハイに行くという強い気持ちと覚悟が足りなさ過ぎたと思います









高1の冬頃、
チームのほとんどが試合に出場して、自分と怪我した2個上の先輩との2人で練習した日がありました。2人と言っても先輩は先に泳いでいたので実際は1人で泳ぎました。





桃山は温水プールなので、冬場は泳がない時ブルーシートをひいていてそれを2コース分くらいだけめくって泳いだ記憶がめちゃくちゃ鮮明です。







怪我した先輩は私がプールに来るまで待ってくれて、上から泳ぎを教えてくれました。
勘違いされやすい性格の先輩でしたが、ラストイヤーで怪我をして泳げず精神的にしんどいなか、私に丁寧に泳ぎを教えてくれて、色んな話をしてくれて






傍から見るとただの傷の舐め合いに見えたかもしれませんが、居場所がないと感じていた私にとって栞もここに居ていいんだよと言われてる気がして大好きな先輩の1人でした。




元々少なかった女子選手が、留学等の色々な理由で気づけば自分1人になっていました






大阪で男子総合1位をとるような高校だったので、女子1人の、しかもインハイからも遠いような私の為だけに1コース貰えるわけもなく男子と同じサークルで荒波の中泳いでいました




この時は自分がどう、とかではなくとにかく同じコースになった男子の邪魔にならないようにできるだけ端を泳いで、サークルオーバーしたら自分で止まってまた泳ぎ出して





私は透明なのか!と思うほどに練習中誰にも相手にされなかった時期でした






なにか明確なきっかけがあった訳ではないですが、遅いやつが練習中に息切れするなんて恥ずかしいと感じてしまうようになってから、練習で全力を出すことが出来なくなってしまって、今まで余裕で回れたサークルも周回遅れするようになってしまいました





いつかのリカバリーの練習で、長水路で200×8をIMで3分サークルのメニューで珍しく5-10秒程度休憩しながらまわっただけでマネージャーに褒められた記憶があります



そんな程度でした




その後はコロナの影響もあり、特になにも成長することなく引退しました





なんというか挫折を味わい、足踏みしか出来なかった高校時代でした










選手を引退した後、色んな人に悔いなく終われたか聞かれ、迷うことなく「終われた」と言い続けてきましたが全然後悔ばかりです
引きつった笑顔で答えていた気がします






水泳的には苦しい高校時代でしたが、日常の学校生活はめちゃくちゃ楽しかったし、
女子が1人だったお陰で先輩にたくさん話しかけてもらえて気にかけて貰えたし、







唯一、文理で同じ時間帯に泳いでいた同期には精神的にたくさん支えてもらいました
この子が1人いてくれたお陰で私は腐らず泳げたし、しんどい日々の中に楽しい瞬間を作ってくれました。
この子は中、高と 0.何秒で全国を逃していましたが、ラストイヤーの今年、ついにインカレを割って人生初の全国大会出場を決めました
しかも2種目!!
さすがに込み上げるものがありましたね
おめでとうすぎる








少し話が逸れましたが、
決して華やかな選手人生では無かったですが、それなりに沢山の経験ができ、色んな経験から今の自分自身が形成されていると思うと全ての出来事に感謝です
高校までの私と関わってくれた方々にも感謝しかありません

桃山引退のときにもらったお花




桃山同期




続く

コメント

プロフィール

HN:
京大水泳部
性別:
非公開

P R