京大水泳部練習日記(2022/3~)

引退日記 髙宮怜花①

お疲れ様です。

髙宮怜花です。


漢字で名乗るのは初めてな気がします。
漢字よりひらがなの方がやわらかい気がして好きです。


引退日記ですね。


ということで。


第1.自分の話
1.流れにそって振り返り

自分の持ちタイムについてまとめてみました。

どーーーん。





伸びと停滞が分かりやすいですね。


2回生から入りました。


小6まで10年くらい、スイミングには通っていました。
選手コースではなく、普通の週1のところ。
昇級制度で早めに1級にはあがりましたが、
ずっとそのままで、選手コースの練習につっこまれたり、人数あわせでリレーに呼ばれる。
でも選手コースではない、それくらいの人でした。


最後は結局、中学受験を理由にしてやめてしまいました。
コーチが最後まですごく気にかけてくれたのを覚えています。
なのに、当時は怖くて、逃げるようにやめてしまいました。



新体操も同じ感じで、コーチの期待がしんどくなって、
中学受験をいい理由に辞めてしまいました。
この2つをずっと後悔していました。


中高時代は、バトントワリングという別の競技をしていました。

定期的に、水泳と新体操を思い出してはもう1回やりたいなと思っていましたが、
一度逃げたことをもう一度やる覚悟を定めきれないまま、毎日の忙しさで忘れるということを繰り返していました。



大学生になった時、
やるならラストチャンスだ、と思ったのを覚えています。
そこでも私は、大学の体育会がガチでやってきた人たちが入るところで、初心者が入っていいところではないような気がして、見学も行かずに諦めてしまいました。


1回生の秋、同じクラスだった寛貴に誘われてNFに行ったとき、
雰囲気が楽しそうすぎて、ああなんで見学も行かずに諦めたんだろうと後悔しました。



2回生
本当のラストチャンスだ!と思い、
体育会に入ることを決意しました。
あの時やめてしまって心残りだった水泳と体操で迷いました。

結局、当時入っていたダンスサークルとの両立を考えて、
朝練の水泳を選びました。
本当に最初はそれくらいの感じでした。


当時は、全然泳げる体力もなく、体も細くて、
見学に行ったとき、
くるみさんに「マネ志望やんな!?」と迷いなく言われた記憶があります。
それくらい、初心者でした。



同じコースで泳いでいたら、他の人たちを邪魔してしまうから。
京大プールの1コースでよく一人で泳いでいました。
どのサークルも回れない自分用にれいかサイクルを作ってくれたゆきとさん、
それに別でスタートを出してくれた愛、
2000mテストの時一人だけずっと終わらなかったのに付きっきりでタイムを取ってくれたしおり、
自分のドリルの時間を削ってスカーリングの仕方を教えてくれた堀ちゃん、
一緒のコースで泳いだ時は、邪魔じゃないよと言いながら抜かしてくれた女子選手たち。


ああ、速くなりたいなあと強く思っていました。
何も返せないのに、迷惑ばかりかけてしまってる気がして、ずっと申し訳なさでいっぱいでした。



2回生の関国
もちろん決勝に残る訳もなく、一つ上の順位の人とは10秒くらいの差があって。


普段一緒に強化練をしていたささむやごっしー、梅ちゃん、玲太、
自分なんかより断然速いみんなはレギュラーがないのに、
自分は女子ってだけで出る事ができて。
点数も取れないし、自分になにが出来ているんだろう。

それでも後から見た動画では、みんな他の選手と変わらず応援をいっぱいしてくれていて。

ベストおめでとうって言ってくれるし。
すごく心苦しさを感じたのを覚えています。


関国終わり、
桜さんが「来年はれいかも一緒に決勝に出よう」と言ってくれたのがすごく嬉しくて、
自分でも程遠いと思い込んで目指してもなかった事を、真剣な顔で言ってくれた桜さん。
大きくて、絶対に叶えたい目標になりました。


ベストは前提・前回の大会からここを変えようと決めたことは絶対次までに出来るようにする。
などここで色々自分の中で決めたことがあります。
今でも大会前に、毎回絶対定めるマイルールです。



次の七帝
女子チームは、怪我をしている人と行けない人が多くて、
私も個人2種目・リレー2種目を、1日開催だったので1日で全部泳ぐことになります。


今考えたら、体力もないこの時期に、
こんなに泳いだらベストが出なくても仕方ないとも思いますが、当時はそうは思えませんでした。

ベストも出せない。
こんな所で止まっている場合ではないのに。


最後の4継では、他の3人を一人で泳がせるのが申し訳ないという理由で、4泳にしてもらいました。
案の定、私がタッチした時には、他大は退水どころか、プールサイドにもいなくて。
なのに、ひなこさん桜さんひろせは、上から手を差し伸べてくれて上に引っ張り上げてくれて。

みんなは優しくて、なのに自分は足を引っ張ってなんの役にも立てなくて、申し訳なさで、
ダウンプールでひなこさんに
「代打にもなれなくてすみません。」と
泣きながら謝った記憶があります。

そこでくれた
「れいかは絶対速くなるから。来年見に行くからそこで見せて。」
という言葉、そこから1年間心の支えにもなった言葉でした。


全国公では、レースを眺めながら、来年この大会で泳ぐっていう約束をかなさんとしました。


約束はどんどん増えて、大きくなっていきました。


他にもたくさんこの時期にもらった言葉で頑張ろうという原動力になったものがたくさんあります。



そこから1年は、とにかく練習を休まない、距離を泳ぐ、筋トレをする、色々前提として。

サイクルアウトしたら、1本も逃したくなくてプールサイドに上がって走って最後尾に追い付いたりもしていました。
テスト期間、夜練して徹夜して朝練して、とかもしてしまっていました。

速くなりたいから、自分のレベルの成長速度を加速させるには、他の人より当たり前のレベルを上げないといけないとずっと考えていました。
(これが良かったのかはわかりません。。。)
とにかく、速くなりたかったです。

この気持ちを絶対に絶えさせないようにしていました。

がむしゃらにやっても、絶対頭打ちになることも分かっていたので、
考えることもやめないようにしていました。
たくさんたくさん色んな人に動画をみてもらってアドバイスをもらいました。
言われたことは絶対1回は試して、うぬうぬと思考をめぐらせたり。
ひなたさんや、代もかぶっていないみささんには特に何回も送ったり。
丁寧に返してもらって、本当にありがたかったです。



3回生の春短
はじめて、自分でも予想を超えるタイムが出ました。

1バック1:17.88
2バック2:49.23

2バックは15秒くらいベストでした。
全国公の団権を切れて、関国も自分なりには戦えるんじゃないかと。

自分的には、やっとスタートラインに立てた気分でした。

京大水泳部の他のみんなに少し近づいた気がして、
ほんの少しだけ同じ目線で話せることも増えて。

このチームのためになりたいと、1年かけて大きくなった気持ちをやっと発揮できるかもしれない。
今までかけてもらった優しさを結果で返せるかもしれない。

より一層、頑張ろうと心に決めました。

ラップ帳にりこ?ゆきか?が書いてくれた
「感動をありがとう。れいかと一緒のタイミングで入部できたのが幸せです」
という言葉、涙が出るくらい嬉しかったです。
今でも、ずっと大事にとっています。



でも、ちょうどこの辺からですね。

肩が思うように動かないことが増えていって。

泳げなくなって、プールサイドに上がることも増えていきました。
そこに色々な要因が重なって、完全に動かなくなってしまいました。

整形外科で、「もう全力では泳げないと思うよ」と言われてしまって、
先生の前で、少しだけ泣いてしまったのを覚えています。


そこの病院には、もっと大きな病院に行ってくださいと京大病院を紹介されました。
結局、京大病院では5か月リハビリをしました。

最初、自分の肩は自分の腕の重さすら支えることも出来なくてずっと三角巾をしていました。
泳げる訳がない。というのは、自分が一番わかっていました。

でも、あの時の自分にとっては、
「来年があるから。」
その言葉が1番しんどかったです。

来年があっても、桜さんはいない。
ひなこさんは、来年見に行くからって言ってくれたのに。
1年前、なにも力になれなかった自分に、
本当に優しくしてくれた2個上の先輩たちが見に来てくれて、1個上の先輩たちと一緒に出れるのは今年しかないのに。

別に、速くなったねと囲まれて褒められたかったとかでもなく、心のどこかで、ああ速くなったねと思ってもらえたら。

本当にそれが1年間自分の頑張る理由になるくらいには、たくさんの先輩にお世話になって、でもあのときの自分はなにも出来なくて。


みんなは対抗戦に向かって気持ちが高まって部内の空気も一体になっていく中、
自分がついていけないことも、
でもついていけない自分にも、全部が苦しかったです。


「去年、初めての関国を見ながら、
来年は絶対ここで泳ぐって思っていたのに、
桜さんと一緒に決勝に出る!賞状をもってツーショット撮るんだ!って約束していたのに。
もう叶わない。
来年はあっても4回生はいない、このチームはもうない。
今年が良かった、このチームで出たかった。」


レベルの高くない自分にとっては、対抗戦の決勝というのは大きい目標だったんです。


この時期、正直本当に苦しくて、
感情に飲み込まれそうなことが多くて、
自分をコントロールするために、
ずっと気持ちを書き起こしては、
何度も読み直して客観視しようとしていました。
これはその時のメモです。



いつかのリレー形式の練習の時、
みんなの空気が一体で、良すぎて、
自分の居場所を見つけられなくて、
京大プールの隅っこで、一人で号泣してしまったこともあります。


みんな対抗戦に向けて盛り上がっている中、
どこに、誰に、この感情をぶつけたら良いのか分からなかったです。

同じ方向に、同じ熱量を持てない自分が本当に嫌でした。


みんなそれぞれ悩んでいる事があって、みんな大変なのに、
それでも自分の事しか考えられなくなっているのも嫌で仕方なかったです。


たらればを考えなくなるまで、
現実を受け入れられるようになるまでには結構な時間がかかりました。


たくさん色んな人が気にかけてくれました。
ここにあげたらきりがないくらい。
先輩・同期・後輩関係なく。


自分より先に私の気持ちに気付いて弱音を吐かせてくれる人たちがいっぱいいて。
心が折れ切らなかったのは完全に周りのおかげでした。


どうしても、関国関カレは間に合わなくても、
全国公だけでも出たかった。
出れるかもしれないという可能性だけでも残したかった。
先の見えないリハビリ期間に、少しでも希望を持ちたかった。
関国をあんな形で出たのが良かったのかは今でもわかりません。


結局、関国当日も、
気持ちを作っていったはずなのに、
ひなこさんたちの顔を見たとき、
ああ約束守れなかった、という気持ちに飲み込まれて泣いてしまいました。


そして全国公、
しみゆうたちのベストおめでとうございます。
がすごく嬉しかったのを覚えています。
自分自身では、あのタイムを認められなかったので、
そんなときの周りの言葉がとても暖かくて、
加えて無事泳げたことも本当にうれしかったです。

唯一、かなさんとの約束は果たせました。



正直、肩が痛すぎて、
もう1年出来るかどうか自信が持てなかったです。
でも、やめる決心もつかなかった。


シーズンが変わった夏季長前、
先輩たちが引退したのも寂しかったですが、

それ以上に、
こんなことを書いていいのかも分からないのですが、
人間関係が、色々が、受け入れきれなくて消化しきれなくて。


もしかしたら肩も治らないかもしれない、怪我を引きずるかもしれない状態で、
このシーズンでやっていける自信がなくて。
2週間くらい悩み、やめるなら自分だ、シーズンに入りきる前だ今だと思い、
主将になりたての塚腰くんにその旨を述べたlineを送りました。


あの日、
塚腰くんが見たうえで返信をしなかったのか、携帯を埋めていた日なのか、
今でも聞くのが怖くて分からないですが、10時間くらい返信が返ってこなくて。


その間に、私は階段から転げ落ちました。
左足を捻挫しました。
落ちた瞬間、痛くて立ち上がれなかった時、
ああもう泳げないじゃん、キックも出来なくなっちゃったって思っちゃって。

なんか泳ぐことに対する諦めをしきれていなかったのをすごく実感しちゃって。

生半可な気持ちでした決断あるある後悔だと思ったので、一旦もっと長期的に考え直そうと思いました。

ということで、休部兼ちょっと早めのオフをもらい、
1か月強のオフに入りました。


本当に 悩みました。
でもやっぱり、
私は、まだ何も貢献できていないのに、ここでやめたら完全に終わってしまう。
こんなに色んな人に支えてもらって、
怪我をした時期の部員のサポートとか寄り添いは本当に半端じゃなかったんです。
辞め切る覚悟を持ちきれないなら、その覚悟が出来るまでは続けるべきなんじゃないか。
という方向に気持ちは向かっていきました。



もう1回やるなら、今度こそ絶対あきらめない。
最後に続けてよかったと思う1年にする。
自分の出せる最大限の努力と結果を。


続けると決めてからは、これをオフ明けるまでの2週間くらいでじっくりじっくりと覚悟を決めていきました。


「最後に続けてよかったと思う1年にする。」
タイムの目標も立てました。
自分が怪我をせず泳ぎ続けていたであろう時の結果よりも、結果を残す。
紆余曲折を全て過程に、血と肉として、結果を出す。
速くなれそうな、強くなれそうなチャンスは全部取る。

阪神合宿も、女子一人で不安ではありましたが、行く以外考えられなかったです。


オフがあけました。


私、本当に不運の神様に好かれているんですよねえ。

よし!!出すぞ結果!!行くぞ練習!!!

て感じでスキップしてたんですけど、


肩の再発、(元々治るものではないらしいので、泳ぎだしたら痛むのは必然らしい)
水筒が足に降ってきて指の骨折、
肩の再発、
首の肉離れ、
肩の再発、


2024年が終わりました。


そして2月頃から、肩の再発はガチなものになっていき、
3・4月はほぼメイン練習できませんでした。
マネさん、組み分けしてもらったのに泳げなかったことが何回も何回もあって、本当にごめんなさい。
仕方ないって言ってくれる毎回の言葉が、ありがたかったし、申し訳なかったです。


全部泳げた練習は、週1・2くらいだったんじゃないかなあ。
草津まで行って、50mだけ泳いで、限界を迎えるなんてこともありました。



別に泳げなくても、出来る事はたくさんあると思います。
あの時の考えれあれる自分の時間のさける最大限はやっていたと思います。
体幹を1日3回やったり、バイクを週6日漕いだり、チューブも毎日出来る限り。
うーん、などなど。


でも、やっぱり、
泳がなかったら水の感覚を忘れるし、
バックを泳がなかったらバックの泳ぎ方を忘れる。


やっとなにかを掴んだと思っても、
また泳げなくなって、
水の感覚からに逆戻り、
なにを掴んだかも思い出せない。


2歩進んだら3歩下がる。
を一生繰り返していた記憶があります。


泳ぎたい。泳げない。
結果出したい。出ない。出せない。



加えて最上回なのに、

私は元々平部員で、自分の実力的にも性格的にも部に貢献できることなんて限られてて、
役職があったり影響力の大きい同期たちが、全体に色を塗ってくれるから。
色が薄くなっていたり、手の届いていない隅っこに色を足そう。
私が、去年の夏、見失ってしまった部活での居場所を。
誰一人、同じ思いをしてほしくなくて、

毎日、誰かのほんの少しの気持ちをワンアップというのを目標にしていましたが、
自分のことで精いっぱいな期間も長かったです。


人には人の地獄があるっていうじゃないですか。

それにも気づいていたのに、なのに、
自分でいっぱいになっていることが多すぎて、


自分にとってのラストイヤー
周りにとっての最上回
どちらもうまく出来ていない気しかしなくて、
自己嫌悪で最悪の状態でした。


少しずつ、ほんの少しずつ、
自分の選手としての結果を諦めていくようになっているのが分かっていました。
せめて後輩にだけでも。
自分のラストイヤーとしての結果は出せなくても。
最上回として、誰かがしんどそうな時に寄り添える心の余裕を、
自分の泳げない事へのしんどさを諦めることで作り出すようになっていました。


(今書いてて思ったけど、なんか必死にもがいていましたねえ。この時期。
うーーーーーーーん。)



1年間心に決めていた
「最後までやり続けて、諦めなくてよかったと思える1年にする」

これは、泳ぎもできない結果も出せない時期の自分にとっては、
呪縛のように自分の首をしめていました。

でも一方で、やっぱり心が折れそうなときの支えで、折れ切らない理由にもなってしまっていました。


「んーーーでも、私は結果出せていないからねえ~」
これはこれで何を言われてもこれを口癖のようにいってしまっていたし、思っていました。

何に対しても自信を失って、
でもなにも諦めきれない逃げきれない、
でも答えはでない、
ずっと悩んでいた時期でした。




4回生春短

メリレ歴1取ろうって言って出たのに、
言い出したのは私なのに、
自分がベスト+1.01
歴1まではあと0.78でした。

しおりは、リレーはなにがあっても4人の責任と言ってくれましたが、
これは完全に絶対に自分のせいでした。

1年前から1:17で止まっていてなにも前に進めていない。
他のリレ面の後輩3人を競技力で引っ張っていくことはできなくても、
こんな足の引っ張り方だけはしたくなかった。

肩が痛かろうと、自分の中での理由に出来ませんでした。
このままで終わりたくない。
でもこのままじゃ、絶対に続けてよかったと思っては終われない。
やっぱり過程だけじゃなくて、結果が欲しい
てことに気付いてしまいました。


この日、竜飛くんがコンディショニングしながら
「僕はれいかさんに諦めてほしくないです。まだいけると思います。」
と言ってくれて、泣いちゃいましたよねえ。



泳げない範囲での出来る限りは、今までもやっていたつもりです。
それでも結果が出せないなら。


うーーん覚悟を決めるしかないか。
今しかないね。
最終兵器、泳げない時も泳ぐ!という方法にたどり着きました。


アホすぎる〜〜!^^


ほぼ毎日痛み止めを飲んで。
肩が痛んできたら、更衣室に走ってアイシングスプレーぶっかけて感覚なくして。
毎日絶対超えないといけない目標を作って。


肩が痛すぎて、ゴーグルの中で泣きながら泳いだこともあるし、
この時期は、毎練習目がガンギまっていたと思います。

ぴりっっぴりしていました。
ぜっっっったいこのタイムで戻ってくる。
ぜっっっっっっったい結果出す。
なにも痛くない。感じない。感じるな!
これだけで脳内を埋めて、気持ちをぎらっぎらさせていました。


多分、私アホなんですよねえ~~~^^

まあそれでいいんです。



これは、肩と精神的にはあまり良くなかったですが、
結果は、ちょっとずつ出るようになりました。

やっぱり、水泳歴も浅くてセンスがある訳でもない私が、
泳ぎで結果を出すには、泳ぎ続けることが最短ルートでした。


ちょっと見誤って、関国1週間前くらいから、
肩が限界を迎えだしたんですけど、それでも、


ずっっっと出たかった対抗戦。
泳げて、ある程度の結果も出せて、
なによりずっと面倒を見てくれていたトレーナーさんたちが
「泳ぎ切れてよかった感動しました。」

と言ってくれたのが、もうそれだけで充分、幸せでした。
諦めなくてよかったと思いました。

自分が求めていた結果の何よりも嬉しかったです。




2.最後
関国2位、関カレ1部昇格、女子ベスト100個


関カレで裏MVSをいただいた時にも言ったことと同じになりますが、
2年前は実力不足で戦力になれず。
1年前は怪我で出る事も出来ず。

絶対に次は、次こそは、活躍するぞ!!
とずっとやってきたんですけど、

そうやって一人で思い描いていた結果とは、比にならないくらいの最高すぎる結果で。

それは一緒に泳いでくれる選手たち。
支えてくれるマネさんトレーナーさん。
周りの全ての人のおかげでした。


なにより、
ずっとずっと支えてもらっていた周りの方々に、
最後に、結果で返せたのが本当にうれしかったです。



諦めないでい続けたら、
こんなにも幸せな景色を見れるんだと。


本当に感謝しかないです。


(続く)

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プロフィール

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京大水泳部
性別:
非公開

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