京大水泳部練習日記(2022/3~)

2/9 しくじり先生〜俺みたいになるな〜

KAT-TUNくらいギリギリでいつも生きている、太田(壮)です。

今週も残り2回なのでなんとか生き残りたいと思います。


期末に部活に、悪い意味でドキドキしっぱなしの2025年を過ごしているんですが(成人式がはるか昔に感じます)、いい意味でドキドキできる日が来ることを祈ってます。最近のいい意味で興奮した出来事は、イアンソープのシドニー五輪:4×100mリレーと、9時開始の憲法のテストに8:50分に起床してギリギリ間に合ったこと、ユジンのビジュアルくらいですね。

ドンチッチとADのトレードはどっちの興奮なのかわからなかったです。





以下今日のメニューです。


メニュー作成者のごしさん、ゆきかさん、りこさん、まきちゃん、ありがとうございました。



今日はIMはぼちぼちでしたが、Frはダメダメでした。距離泳いで耐性をつけたいと思います。

めでたいことに、IM面の第二回パートミーティングが行われ、水中動画撮影後うめさんからたくさんアドバイスしていただきました。まきや様にも動画を送ってアドバイスもらったので日々の練習で改善していきたいと思います。






以下合格体験記(?)です。

合格体験記にはてながあるのは、そもそも僕は東大志望で、そこは滑って京大に来てるからです。来年からは消滅するらしいですが、京大法学部の後期受験で奇跡の合格を果たして今ここにいます。


というわけで、京大を目指している皆さんがこのブログを読んでもあまり意味がないかもしれません。褒められた受験生生活を過ごしていたわけでもないので、京大志望とか関係ない身のある話をすることも難しいです。だから、今日は皆さんが晴れて京大に合格した、その後の過ごし方について、人生を振り返りつつ話ができたらいいかなと思います。








しくじり先生〜俺みたいになるな〜(太田壮記ver)←ちゃんと見たことないので詳細は知らんです



2004年6月11日生誕。(堀さんとは約三か月くらいしか変わらないはずなんですが、どこでこの貫禄の差がついたんでしょうか。)すくすく育ちます。子供の時の僕はsuper cuteだったらしいです。

親は今でもこの頃の僕がいかに可愛かったか、そして今がいかに可愛くないかを力説してきます。親の僕への好感度は単調減少で間違いないと思います。いつかマイナスにならないか心配です。




父親が永遠と読み聞かせをしてくれていたおかげで本が好きで、文字を読んだり難しい言葉を覚えるのは早かったみたいです。この時期、水泳ではセントラルの赤帽子(一番初級)で2年間止まるという伝説を残します。軽く小学校受験をするも、落ち着きのない子供だったのであっさりと落ち地元の小学校に進学します。





小学校はめちゃくちゃ楽しかったです。楽しすぎて朝スキップしながら学校に向かっていました。
成績簿では整理整頓の欄が常に▲でしたが、それ以外は順調も順調でした。水泳はセントラルで小学校中学年?くらいの時に選手コースに入って、他にもピアノとか英会話とか色々やってた気がしますが、基本全部楽しかったはずです。




小学校4年生の時に新設の塾に入りました。ここはSAPIX(関東で一番でかい中受塾)が代ゼミに買収される時に一悶着あったらしい、元SAPIXの校舎長達が勢揃いした豪華な塾でしたが、出来立てで僕たちの代が第一期でした、人数も少なかった。

ここでの授業が死ぬほど面白くて、中学受験向けの勉強を始めます。するとあらまあ、成績がグングン上昇するではありませんか。



小学校5年生になる頃に、もっと競争が激しい塾の方が向いてるという助言を受け、SAPIXに入塾します。ここから黄金時代の始まりです。SAPIXは全体で塾生が3000~5000人くらいいたと思うんですが、その中で一桁順位を連発。四谷大塚の全国統一小学生テストでも全国4位になりipadももらいました。僕が通っていた成城学園前校は、その年本当に豊作で、一番上のクラス(20人くらい)の中で、全国一桁順位が8人いた時とかもあり、そんな環境で揉まれて成長してました。むちゃくちゃ騒がしくて愉しかった。


別に勉強ばかりというわけでもなく(流石に小6の夏くらいからは勉強ばっかりでしたけど)、児童館に遊びに行ったり、3DSで遊んだり、小学校ではドッチボールや恋愛に励んだりと充実した生活を送っていました。(水泳は小5か6の時に一般コースに戻しちゃったけど)





結果、中学受験は順調にいき(当時は当時で葛藤や苦しみもあったと思いますが)(小5の時の成績が良すぎて、調子に乗ってサボって成績が落ちてきた小6の時に、もう一人太田っていう賢い子が入ってきてnew太田、old太田ってあだ名をつけられた時はキツかった)渋幕、開成、渋々、筑駒と綺麗に受かって中学受験を終えました。


開成に行くか、筑駒に行くかで色々あったのですが、結果筑駒に行くことに。
筑駒を知らない人のために説明しておくと、関東の中学では一番偏差値が高く、灘とどっこいどっこいで、学年の半分が東大に行く学校です。





ここからが転落人生(少なくとも勉強においては)の始まりでした。
東大には年間で3000人が入学します。中学校一年生の太田くんは、「なら余裕で入れるやん」と思いました。だって全国一桁だったから。そして実際、僕が全国4位だった時のテストで3位と5位だった子は(二人とも筑駒でした)、最終的に東京大学理科三類に合格していきました。僕が東大に入れるだろうというのはそこまで的外れな予想でもなかった(文系志望だったし)わけです。




中学受験の反動と、天狗になったことで、勉強を全くしなくなりました。筑駒は基本的に超放任主義なので、授業を聞かなくても注意されないし、宿題もありません。(そもそも私服登校で、校則は上履きを履くこととガムを食べないことの二つだけです。)(僕はその二つしかない校則を上履きを無くしてよく破っていました。)そんなわけで勉強時間は、すべての授業を合計しても0時間でした。


勉強をしなくなった原因はもう一つあって、周りに数学の天才が多すぎたことでした。元々算数は大得意というわけではなかったですが、入学後に中一で大学数学の難しい理論について語り合ってる奴らを見て、日本の数学はこいつらに任せようと思いました。ということは俺が勉強する必要はないなと思って、放置of放置。



その結果因数分解を理解したのが高一、平方完成ができるようになったのが高二でした。
(筑駒の授業は先生の研究発表みたいな感じで、代数の授業では中3まで絶対値付きの方程式の話しかしてませんでした。)





学校生活自体は普通に楽しく、水泳部で先輩に可愛がってもらったり、文化祭に力を入れたり充実はしてました。ただ、中学受験であれだけ努力した割には、こんなもんか、というのもなんとなくありました。




受験に受かったら薔薇色の生活が待ってるんじゃないかと期待して入ってきた割には、いってしまえばまあ普通の中学校。

地元の友達がみんなで遊んでたり、夏祭りで付き合ったとかいう話を聞いて全然そっちの方が楽しそうやんと。対する僕は、男子校でむさい男に囲まれながらクラロワをして、格上エリババレイジにボコボコにされて絶叫していました。(まあそれはそれで青春でしたけど。)



学歴に対する欲望が筑駒に入って完全に満たされたこと、別に学歴が良くてもそんなに生活が変わるわけじゃないんだなと思ったことで、学歴に対する執着が完全になくなり勉強への熱はさらに減衰していきます。



高校で一回鉄緑会に入るも、クラスに友達もおらず、そもそも平方完成を理解してないやつは当然ついていけず、隣のbook offで永遠に漫画を立ち読みしてたら、欠席ばかりの家庭宛報告書が家に届き辞めさせられました。



学校では部活の主将をやったり、体育祭の応援団長をやったり、文化祭でも花形の班で企画長をやったりと充実していましたが、団長は高三の9月、文化祭は11月だったので現役での合格は無理だろうと言い訳をして勉強をサボってました。周りの友達はなんだかんだ時間を見つけて勉強したり、遅刻してでも塾に行ってました。そういうところに差が出ます。

別に東大に行きたい理由は時になかったですが、周りが東大を目指していること、筑駒に入ったんだから東大でしょというなんとなくの感覚で志望校はずっと東大でした。ここでもっとちゃんと進路を考えておけばよかったなと今では思います。





結局高三でちゃんと勉強を始めたのは1月からでした。共通テストやばすぎると泣きながら勉強したら、一月から始めた世界史で98点を叩き出すという奇跡を見せ共通テストはギリギリ耐えましたが、そんな付け焼き刃の学力では東大に通用するわけもなく二次はボロボロ。大差落ちでした。




高三は東大単願だったので、浪人が決まり駿台に入ります。駿台でもあまり勉強に身は入らず、授業を切って昼寝して、起きたらフロンティアホール(落ちる受験生が集っているところ)でたむろするという底辺の浪人生として過ごしていました。

この時期は精神的にキツかったです。勉強しなくちゃなと思いつつも勉強ができていない現状。東大に行きたいという熱い思いもないのになんのために勉強するんだろうという虚無感。明日やろうは馬鹿野郎ですが、常に明日やろうと思って、結局やれる明日が来ることはありませんでした。



自分との約束を破ると、自分のことが嫌いになります。嫌いな奴との約束は守れないのでまた約束を破ってしまいます。この負のループで浪人期は、自己肯定感高めの自分にしては珍しく自分が嫌いでした。


模試ではA判定でしたが、肝心の数学の成績は上がっておらず、他の教科も実力が上がってる感じはしませんでした。浪人のアドバンテージでギリギリ点数だけ取れてる感じで、何より地に足つけて努力をしていなかったので、空回りしてふわふわしているような感覚でした。




結局その感触を払拭することはできず本番に突入。共通テストは9割で、早慶も受かってましたが東大に受かってる気はあまりしませんでした。(東大受験で一番熱かった瞬間は駿台で恋してた子が僕の真後ろの席だったことでした、この瞬間は流石にドラマすぎて受かるんじゃね?と思った)


オンラインでの合格発表を待つ間、去年の不合格の記憶しか出てきませんでした。去年と同じ手順で合格発表を見て去年と同じように番号をみつけられず、やっぱり今年もダメだったか。と思いました。


東大に落ちた1日後か2日後に京大を受けに行きました。元々は受ける気もなかったし、急だしでめちゃくちゃぼーっとしながら新幹線に乗った気がします。新幹線の中で、やっぱ俺って天才じゃなかったんだ、っていうのと才能を無駄にしちゃったんだな、と思いました。

ドラ1が大成しなかった時みたいな感覚を親は味わってるんだろうなと思って急に申し訳なくなったのを覚えています。



その後よくわからない小論文を書いて、なぜか合格。なんだかんだ京大に行くことになりぬるぬると京都へ来て今に至ります。



アドバイスは
・慢心せずにコツコツ努力しよう
・やりたいことがわからないなら、やるべきことをやろう
です


自分は、「職業なんかなってみないとわからないし、社会にも出てないのに何やりたいかなんて選べない」という拗らせ高校生でした。そういう拗らせた考えを言い訳にして勉強もサボっていました。別に今でもこの考えが100%間違ってるとは思いませんが、結局多くの人はやりたいことを見つけられないのだと思います。(やりたいことがあるなら素晴らしいです。)


なら、やりたいことが見つかってないことを言い訳にせず、やるべきことをやりましょう。ほとんどの人は、やらなきゃいけないことがなんなのか本当はわかっていると思います。言い訳したりでなかなか実行できないのが人間ですが、乗り越えた先には確かな実力が待っていて、それはあなたを支えてくれます。


実際、中学受験での勉強や、小学校時代の水泳は今でも僕を支えてくれています。でも、中高6年間勉強したり泳いでたりした人にはものすごく大きな差をつけられてしまいました。中学受験時代には全然成績が振るわなくても、その後も継続して努力を重ねて僕とは比べ物にならないくらい素晴らしい頭脳を手にした友達も大勢います。継続は力です。



大学受験の結果がどうなったにせよ、ちゃんとやってきたことはあなたを裏切らないし、大学に入ってからも努力を継続できるといいねというお話でした。人生は長距離ってヒカキンも言ってたしね。










長々とした文章でごめんなさい。






自戒を込めて



2024→2025 STARDOM













コメント

1. 今度はnew太田になれたね

あんまり反省してなさそうでいい

2. 所々天才が滲み出てる

中受した人ほんと尊敬

プロフィール

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京大水泳部
性別:
非公開

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