京大水泳部練習日記(2022/3~)

引退日記 宮田潤①

目次


①夏季長裏MVS日記


②水泳人生の振り返り


③主任として


④バイバイとかサンキューとか


 


 


 


①夏季長 裏MVS日記


この度引退することとなりました。


4回生の宮田です。


 


全国公が終わって、院試を挟んで、夏季長でラストレースを泳がせていただきました。


そしてなんと新主任の堀くんに裏MVSをいただきました。ありがてえありがてえ。


 


 


最後は主任宮田ではなく、ただの1人のスイマーとして。


「今までの思い出を胸に」とか、「誰かに感謝を伝えるために」とかではなく、本当に真正面から、まっさらな気持ちでプールと向き合うことができました。


 


上手く言語化できませんが、何かが込み上げてくるということもなく、本当にスッキリとした気分でした。


「引退するとき自分は何を感じるのだろう」と色々と想像していたのですが、ここまで無色透明な気持ちになるとは思ってもみませんでした。


 


一生忘れたくないなぁ。


 


 


ともかく、自分らしく泳げたかなと思います。


 


ちなみにメドレーリレーの平泳ぎはめっちゃベストです。


そして初めてのリレー失格という得難い経験をすることができました。


総じて最高の思い出です。駿佑、寛貴、寛真、ありがとう。

 


 


駿佑、これに懲りることなくバサロを磨いて、今後もしっかりギリギリを攻めてください。ビッグな選手になるためには、1回の失格くらいでびびってちゃダメよ。


 


 


個人では、2フリのラストラップ29.12は水泳人生最速ラップでした。めちゃくちゃ気持ちよかったです。今までで一番楽しい200mでした。


100もほぼベストラップでした。まんぞくまんぞく。


 


出てよかったです。最高に楽しかった。


3回生以下の皆さん、長々と受け入れてくれてありがとう。


 


応援も本当にありがとうございました。


 


 


 


②水泳人生を振り返る


 


さて、引退日記ということなんで、とりあえず自分の水泳に対する思いを整理するためにも水泳人生を振り返ってみようと思います。


自分用のメモみたいなものも兼ねてるので適当に読み飛ばしてください。


 


 



 


 


・思い出


3歳


水泳を始める。将来の夢はゴミ収集車(いっぱい食べるから)。


 


 


5歳


スイミングクラブの記録会のようなもので初レース。


25mを29秒くらいだった気がします。お母さんが入れてくれたバアムクーヘンをレース前に爆食いした記憶もある。


 


  


6歳(北京オリンピック)


平泳ぎ習得に大苦戦。将来の夢は北島康介のようにオリンピックで金メダルを取ること。


キッズサッカーではディフェンスを任される。要潤、爆誕(参照:2022/11/14 , 小さな足で蹴飛ばしていけ)。


 


そして無念のサッカー引退。


 


 


小1〜2


平泳ぎに合格できないまま、育成コースへ(おい)。


一番覚えているメニューは「25m 6本 30秒サークルでノーブレ」。


1列に並んで1人ずつ「何本ノーブレできた?」と聞かれ、少なかったらお尻を叩かれました。そんな時代。朝練前に泣いたこともいっぱいあります。


 


練習の合間にみんなとやるポケモンが楽しかったです。


あと合宿の出し物で「楽しんご」やらされました。なんだったんだあれ。


  


 


小3


初の九州大会。50,100mの背泳ぎに出場し、華々しく最下位を獲得。(長水路で42.22と1:29.49)


 


 


小4


ルネサンスへ。この頃からFrに転向。県のジュニア強化合宿に参加し、周りと比べて平泳ぎが遅すぎることがついに発覚。膝崩オン泣。


友達もたくさんできて試合や合宿に行くのが楽しみになりました。


  


 


小5


県大会で優勝。県内の同学年では割と敵なしでしたね。


 


短水路の県選手権では、2フリのラスト25mで年上に競り勝って表彰台へ。


色んな人に褒めてもらって2フリが一番好きな種目になりました。


 


 


小6


九州大会でも表彰台に。ブイブイ言わせてました。


50,100,200自由形で春のJO突破。


JOでわけわからんくらい速い同い年を見てちょっと心が折れました(小6で53秒とか出してた)。


 


12月には新潟で7泊8日の合宿に参加。人生で一番きつかったです。


  


 


中1


去年まで勝ってた友達に負け、練習に身も入らず、肩を怪我して、JOも切れず。


試合に行って友達に会うのが少し怖いと思い始めました。


自分が天狗になっていたことを思い知らされた。本当に辛かったです。


初めての大きな挫折でした


 


 


中2


コーチが変わり、心機一転。厳しく鍛え直すことに。


 


今でも覚えてる言葉


「限界が来てからがトレーニングだ」


「練習中は背筋伸ばせ」


「声くらい出せるだろ」


「レースだったらそこで諦めるのか」 などなど。


 


年始の合宿では秋葉山でひたすら泳ぎ込み、キック覚醒。


 


1,2フリで春JOを再び突破しました。


1フリはチャレンジレースで、前半を50mのベストくらいで回ってギリギリ突破。


2フリも前半から攻めました。ラスト25mで腕をバッテンにしているコーチの姿が見えて、死ぬ気で腕を回し、0.06秒突破。1番覚えてる会心のレースです。


 


本番のJOでは力みすぎて見事撃沈。誰にも負けないくらい努力したつもりだったし、自分に期待していた分、周りからも期待されていた分、かなり心が折れました。


 


「自分って大きな試合で弱いのかな」なんてことを思い始めました。


 


 


中3


100mで全中突破。


200mは隣で友達が突破したが、自分は切れず。


「まあ俺はそんなもんだよな」と納得しました。


 


本番の全中はスタートミスって、いいとこなしで終了。


みんなの前では明るく振る舞い、応援に徹したのですが、親には結構当たってしまいました。本当にごめんなさい。


 


この頃から九州の他の友達にもボロ負けするようになります。「俺は受験勉強してるから」と友達にも自分にも言い訳していました(実際はそんなにしてなかったから本当に言い訳)。


惨めだけど、そうしないと当時の自分にはとても耐えられませんでした。


  


 


高1


とにかく伸び悩みました。


お情けで国体のリレーメンバーに加えてもらえたのが救いでしたが、その国体でも大していいタイムを出せずに応援に徹しました。1年前の全中と何も変わっていなかったです。


 


高校総体の2フリで初めて1分57秒台を出して、もしかしたらまだ伸びるかも、来年はインハイ切れるかもと思ったりもしたのですが、結局はそれが高校最高のタイムでした。


 


お金がかかる合宿にも行かせてもらってるのに思うように結果が出ず、色んな人に申し訳なく、自分を許せなかったです。


 


 


高2


1番の挫折。地元開催のインハイ出場を目指しましたが、全然届かなかったです。


自分は凡人だと認めざるを得ませんでした。


インハイでは高校生役員としてお弁当配りをしていました。「インハイの空気を味わいたい」と思って応募したのですが、正直なところインハイに出ている友達と比べて自分があまりにも惨めで、辛いだけでした。


 


特に200mでは1年間全くベストが出ず、完全に心が折れてしまいました。九州新人戦の県対抗2継でいいタイムを出せたこともあり、50,100を頑張ることにしました。


「頑張ることにした」というと聞こえはいいですが、結局のところ2フリから逃げただけです。2フリが1番嫌いな種目になってしまいました。


 


夏以降は「楽しく水泳をしたい」「勉強が忙しい」と言い訳して、中途半端に練習に取り組むようになりました。


レースでタイムが出なくても「ちゃんと練習してないから仕方ないよね」と思ってました。


 


気分転換と称して50m4種目に出場したりしました。


図らずもこれが高校最後のレースとなります。


 


それまで支えてくれた家族、応援してくれた友達、指導してくれたコーチ達に対して、こんな中途半端な取り組み方は「そりゃないよな」と、今になって思っています。


 


とはいえ周りに落ち込んだ態度を見せて心配もかけたくなかったし、「水泳を楽しんでいる」というアピールを必死にし続けていたのは本当にしんどかったです。


 


 


高3


コロナ。受験勉強するからという理由で、高校総体の代替試合にも出場せず引退しました。


もう水泳はいいかなと本気で思っていました。


なんならコロナや受験を口実に都合よく水泳から逃げられたことにホッとしてしまう自分もいました。そしてそんな自分にモヤモヤすることもありました。


 


人間としてなんの魅力もなく、人生で1番終わってたなぁと今でも思います。


  


 

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