やっと引退日記を書く気になりました
梅村です
引退日記読むのは大好きだったんですが、書く側になるとこんなにめんどくさいんですね。
Word君がいちいち日本語の間違いをしてきてイライラしました。機械のお前より21年日本語を使ってる僕の方が正しいに決まってるやろ。
何の確認もしてないので誤字してたり、日本語おかしかったらすいません。
① 中学校まで
水泳を始めたのは4歳か5歳くらいときです。近所のスイミングスクールにぶち込まれました。しゅんぺいくん(5)はスイミングスクールが大嫌いでした。しんどいからです。あとコーチも怖くて嫌いでした。結局小6までいましたが選手コースに行くまいとあえて平泳ぎをできないふりをするなどしていました。普通に二度と水泳なんかしないぞ、と思いやめました。
中学校ではサッカーをしようと思いましたが先輩が怖すぎてやめました。いくあてを失い、入る部活もないので水泳部に入りました。入ったはいいもののやる気なんかないし、なんせしんどいことが大嫌いなので全く頑張りませんでした。おかげで中学校のときの公式記録は残ってません。大阪大会にも大阪学年別大会にも出られなかったからです。何秒だったかもわかりません。最後の大会も夏期講習って言って参加しませんでした。ということで中学校まではお水遊びをしていただけでした。今思えばこの時もっと頑張ってればよかったと思います。遅すぎますが。
② 高校
さて、高校が転機です。めでたく第一志望の茨木高校に滑り込み入学し、今度こそ水泳をやめるぞと決意し、スキー部の仮入部に参加しローラースケートをびゅんびゅん飛ばして遊んでいたらひっくり返って骨折しました。骨がずれていたらしく全身麻酔で手術することになりました。
病室でスマホを眺めていると、水泳部の部長から「水泳部入るってことでいい?」とLINEが来ました。クラスに中学で水泳部だったやつがいて、そいつが連絡先を渡したようです。先輩が怖くて「はい」と返事してしまいました。ということで高校でも水泳部になってしまいました。なんてこった。
念願かなって中央大会に出れることになり、人出不足だったのでリレーも全部出してもらったような気がします。中央大会は50が27.6、100が1:00.8だったと思います。長水です。高校入って最初の地区大会のときは100が1:15でした。短水です。信じられないくらい伸びました。俄然やる気がでてきたので、引退までに56くらいだしたいなぁと思っていました。しかしコロナのせいで何回も部活を停止され、思うように練習できずこのときのタイムがベストで引退することになりました。やり切ったと思っていましたが、もっと速くなれたんじゃないか?という心残りがありました。
① 大学
全進
受験勉強は無双し、晴れて京大に受かりました。若干の未練があったので水泳部を調べてみると6:35~練習って書いてありました。どう考えても無理です。毎日5時に起きられるわけがありません。なので友達にくっついてフットサルサークルの新歓やフィギュアスケート部の新歓に行きましたが、どれもあまりピンときませんでした。一応水泳部の新歓にもいってみました。伊藤さんと堀くんもいました。さんざん迷いましたが、どう考えても4年間暇だったので入ることにしました。これが大きな間違いでした。早起ききつすぎ、練習きつすぎでした。毎日練習に行くだけで精一杯。泳ぎを直すとかそんな次元にありませんでした。強化練もしましたがやってるだけでした。なぜか2フリがあいていたのでやってみましたが2:30かかりました。以来一回もやってません。このときの笹村くんは僕と同じくらいでした。本当です。よくわからないままシーズンが終わりました。
青炎
夏になっても一向に速くなりませんでした。練習するたびに遅くなっていきました。笹村はあんなに速くなってるのに、ベストすら出せない自分が嫌になりました。あぁ横転横転。
対抗戦も観てるだけでぜんぜん面白くありませんでした。みんなが決勝に残って楽しそうにしてるなか、応援だけしてるのが虚しくなりました。夏唯一の試合、七帝戦でも高校の時より遅いタイムでした。もうその場にいるのが嫌すぎて一人で歩いて帰りました。とぼとぼ歩いてたらバスに乗ってる人たちに追いつかれて気まずかったです。その後同期は東京でご飯を食べてましたが、参加せず一人で新幹線に乗って帰りました。今シーズン終わったらやめようと決意しました。でも練習に行かないと怒られそうだったので強化練の2部練には参加し、一応やりとげました。全国公終わりの写真を撮ってるときにはるさんにこんなことをいわれました。
「僕は水泳をやる意味がわからなくなっちゃったけど、梅ちゃんはその意味を考えてほしい」
ちなみにはるさんはこんなこと言ったっけ?って言ってました。適当すぎるやろ
その夜、ゆういちろうさんの部屋に行ってやめようかなと思ってます、という話をしました。その部屋にいたりょうせいさんは「速くならないと思うしやめたら?」って言ってました。人の心がないみたいです。
でもこの全国公は転機でもありました。たくとさんがIMやろうといってくれました。IMは人がいなくてレギュラーとれるから勧めてくれたんだと思います。そのときなぜか肩組んで写真撮りました。
やめるつもりでしたがたくとさんがIMやろうって言ってくれたり、夏季長で高2以来のベストがでたりしてすごく迷いました。IMなんかやったことありません。そういえば書き忘れていましたが、2回生夏までフリー専でした。理由は簡単。フリーしか泳いだことなかったからです。バッタなんかもっての他です。当時踏水会で50のハードしたら39秒でした。遅すぎて草。別にブレすらも速くありませんでした。1ブレ1:18とかだったのでかずさの方が余裕で速いです。
いろいろオフ中に考えて自分なりに3つくらい決めました
1. 水泳を楽しむ
2. 後悔は引退するときにする
もう自分は水泳に向いてないし、これ以上速くなることはないだろうと勝手に決めつけていましたが、真に水泳に向いていなかったかどうかは引退のときに決めようと思いました。4年間やり切って、それでも速くならなかったら「向いてなかったなぁ」と思いながら引退すればいいや、と思いました。
3. 速くならなくても諦めない
さっきのと被ってるかもしれませんが、全部経過に過ぎないわけです。次の試合でベストがでなくても、その次で大ベストがでればなんの問題もないわけです。一喜一憂するのはやめました。
これくらいです。とにかく最後まで続けてみようと思いました。
総乱舞
ということでやったこともないIMをすることに決めました。せっかく拾ってもらったのでたくとさんと一緒に全国公にでることを目標にしました。もちろんフリー以外泳げないので練習ではさんざんぼこぼこにされました。バッタなんかほんとにひどかったと思います。いまもあんまり上手じゃないけど、それにしても泳げてなかったと思います。それでも前の夏に比べれば断然水泳を楽しめました。IMだけ迫害を受けてたくとさんと二人でGSの4セット目をするのも、二人でパートミーティングするのも楽しかったです。たくとさんはへたくそな僕の泳ぎを真面目に見てくれました。おかげでベストがでないなんてことはなくなりOB・OG戦のときは200で2:28とかでしたが、春室で2:23まで来ました。このペースでいけば夏季公ではワンチャンあるんじゃないか?と思い始めました。が、ここからいろいろあってあんまり速くならず、結局全国公には届きませんでした。ちなみに400も一回やってみましたが短水で5:22だったのでこれは無理だと思って諦めました。
その後肩が破壊され関カレ以降泳ぐことなく総乱舞を終えました。
Stardom
ラストイヤーです。ラストイヤーの目標は2つでした
・全国公を個人で割る
・対抗戦で決勝に残る
あとはさすがに400もやることにしました。全然泳げる気はしませんでしたが、やらないわけにはいかない気がしました。
タイムの推移はこんな感じです
200 2:22(OBOG)-2:20(冬季公認)-2:19.39(春短)-2:18.91(夏季公認)-2:18.47(金沢)
ということで全国公個人はおろか団体すれきれませんでした。200は0.5、400は0.3足りませんでした。横転。しかし400が切れなかった怒りに任せて泳いだ1ブレで全国公切れました。ありがとう平泳ぎ。
結局切れませんでしたが、ワンチャンあるかも?と思いながら練習する期間はほんとに楽しかったです。途中3回くらいやめたくなりましたが。
今シーズンが一番水泳を頑張れたんじゃないかなと思います。これまでは定期的に練習をさぼってましたが、今シーズンはおおむねさぼることなく練習に行きました。当たり前か
阪神合宿にも意を決して参加しました。人としゃべれないので他大の人とは全然しゃべれませんでしたがそれでも行ってよかったです。
対抗戦の決勝に関してもぜんぜん届かない目標でした。関国の400で隣で大月くんが爆速で泳いでるのをみて、あぁ勝てないなぁと思いました。レース終わってから大月が練習相手になってくれてありがとうって言ってくれてちょっとだけ救われました。0.1点分くらいは貢献できたかな?
一応関カレでは奇跡の直接決勝だったので決勝に出る、ということ自体は達成できたのでよかったです。ゆうごのお母さんも見に来てくれて僕のレースを見て泣いてくれました。なぜ...?
人生最初で最後の賞状ももらえました。額縁にいれて神棚に飾ろうと思います。
ほんとはもっとラストイヤー書くことがあるはずなんですけど書くの疲れてきて思い出せません。思い出したら書きます。
後輩たちへ
ぜんぜん後輩としゃべらなかったと思います。すみませんでした。特に1回生はほとんど話したことないと思います。書くことないと思うのでコメントは無理しなくて全然大丈夫です。
さっき書いたこととほぼ同じですが、まずは水泳部生活そのものを楽しんでほしいと思います。せっかく入って友達もできたと思うのでやめちゃうのはもったいないと思います。競技もそうですが、そればっかりだとしんどい時期が絶対来ると思います。
とはいえずっと伸びないと面白くないのも事実だと思います。
僕がベストが出るようになったのはマインドの部分が大きいと思います。それまでは「どうせ自分なんか」と思ってましたが、そうするとベストでない➝練習楽しくない➝またベストでない、の悪循環に陥ります。せめて根拠がなくても自身だけはあった方がいいと思います。
あとはベストが出なくて困ってる人達に向けてですが、筋トレ頑張って、EN頑張れば速くなると思います。諦めずに頑張ってください。
先輩方
泳ぎみてもらったり、ご飯連れて行ってくれたりと、大変お世話になりました。全国公切ったときはいろんな人が連絡くれてとてもうれしかったです。またご飯行きましょう。
IM面
全然パートミーティングしなくてすいませんでした。たっぴは毎回パートミーティングの日程決めてくれたりありがとうございました。もうたっぴがパートリーダーだった気がします。
来シーズンはBrと合体させるとおもいますが、また人数が多くなったらうれしいなと思います。
そうき
練習に来い(n回目)
絶対速くなれるし、やる気があるのもよくわかってます。起きられへんよな。朝しんどくて100回くらいやめようと思ったのでよくわかります。練習に来れないとしてもできることは山ほどあります。いつか対抗戦で活躍する姿が見れるとうれしいなと思います。
かもちゃん
きっとこれからすごい期待を背負って競技に取り組むことになると思います。それが重荷になる瞬間もきっとあると思います。チームのため、ももちろんですがなにより自分のために、楽しんで水泳してほしいなと思います。
おうすけ
いつかIM面に帰ってきてね
同期
3年半ありがとうございました。最高の同期だったと思います。やめるのをためらったのはみんなといるのが楽しかったからです。違う同期だったらほんとにやめてたかもしれません。引退しても仲良くしてください。
さてこれくらいですかね
思い出の写真たちを張り付けて終わろうと思います
3.思い出
ここで気分転換に、水泳部での思い出を。
・たぶんはじめて同期女子で遊んだ日。しおりポーズ。& 誕生日めっちゃ近いきーちゃん
・この写真めっちゃ好き
・同期何人かで香川にうどん食べに行った
・同期女子みんなでコストコ行った
・ベトナム旅行で璃子のスカートを作るれいか
・淡路島までドライブ
・班に川根はいないのになぜか川根の家で開催された班タコパ
・合宿が途中で終わり、みんなでわっちシャンパンを飲んだ夜
・大阪方面組(しおりもいる写真見つけれんかった)
・数々の同期ご飯
これから
・どこの国行くか決めるための万博
・卒業旅行 inエジプト?ブータン?台湾?
楽しい思い出がたくさんあります。みんな大切な人たちです。これからも仲良くしてください!ご飯にも遊びにもいきましょう!
4.幹部として、チームでの役割
世代交代する少し前、ラストイヤーの目標を決めました。
それは、
常に明るく、優しく、ときに強く。みんなよりちょっとだけ先にいて、いつでも手が届きそうな、でも永遠に先にいるようなそういうところに居続ける。
高いところから勢いをもってチームを引っ張る役割は、堀ちゃん中心にやってくれるし、みんなの交流を深める役割は塚腰中心にやってくれるし、チームの中での私の役割は、みんなの近くで少しだけ先で堀ちゃんの方に引っ張っていくこと。
チームの元気と明るさはれいかが作ってくれるし、大ベストの勢いはきーちゃんが作ってくれるし、女子の中での私の役割は、少しだけ冷静に1人1人を見て、全体の力が上がるように引っ張ること。
です。
できたかなぁ。
できてなかった部分もたくさんあったなと思います。
誰か1人でも、そういう存在だったと思ってくれていたら嬉しいです。
幹部のライングループができたのは、3月16日です。そこから色んな決め事をしました。
意見がぶつかることもありました。意見がぶつかったあとって名言が出やすいんです。堀ちゃんの、「全部勝って、最高の状態で部活を残したい。」とかね。それを塚腰がアナウンスして、重要な連絡が流れてしまったのもなんだか良い思い出です。この名言、本当に叶えてしまったんだから、すごいよねぇ。
世代交代があってすぐ、どこからともなく、この代はだめだという声が聞こえてきました。でも、1年たって、どうでしょうか。
そんなに悪くなかったんじゃないかと私は思っています。
チームの方針を決めていたのは、主に主任の堀ちゃんやメニュー王のささむだったと思います。仕事をたくさんしてくれていたのは主将のごっしー。マネをまとめてくれていたのはしおりで、トレーナーをまとめてくれていたのはわっちです。私がしていたことは、堀ちゃんの出した方針に意見することと、予定表に予定を書き込むことでした。
堀ちゃん本人は、何にも仕事してないって言うと思うし、頼りない代だったと言うと思います。でも、私個人としては、1年かけて、すばらしいチームになったと思います。
一方で、女子主将としては、後悔がたくさんあります。
もっと気にかけてあげればよかったと思うこともあるし、私が気づかないうちに悩んでいたと後から知ったこともありました。
しないといけない決定も、私一人で決めたことは何1つなく、必ずれいかときーちゃんに相談していたし、スタッフや後輩の意見を聞いたこともありました。
みんながいないと今の女子チームはできなかった、一人一人の想いがチームを作り上げたのだと思います。シーズンはじめの日記に書いた、「私が女子主将をやる意味」は、みんなの意見を尊重しながら女子チームを作ることができたこと、かもしれません。
関国でも関カレでも2位。ベストは合計108個。素晴らしい結果です。
そのくらい女子チームが強くなったことが、本当に嬉しいです。
目標をどちらも直前に上方修正したし、絶対的な強さは欠けていたかもしれないけれど、みんなに支えてもらって一年間やりきることができました。本当にありがとうございます。
あと、忘れてしまいがちなのですが、フリーミドロンの長でもありました。パートミーティングをたくさん開くことができなくて、ごめんなさい。大月、川根、窪田、ひろせ、たまき、ゆら、どの選手の成長も楽しみです。来シーズンの活躍も期待しています。結果見てるよ!
3回生以下は、これから代が変わって不安に思うことがあるかもしれませんが、ゆうごをはじめとする、チームを作っていく人たちに協力してあげてください。時に意見を言うことは必要かもしれないけれど、信じてついていくのも1つの大切な役割だと思います。
みんな初めはとまどうのは当たり前。役職に関係なく、1回生から4回生、選手もスタッフも全員でチームを作ることを忘れないでほしいなと思います。
5.関わったすべての人へ
京泳会の皆様
日頃からご支援、ご声援をいただきありがとうございます。最後に現役ミーティングに参加させてもらい、日頃から支えていただいていることにあらためて気づきました。これからは私も現役を支援する側にまわりたいと思っております。
父、母、妹、弟
自転車でスイミングまで迎えに来てくれて一緒に帰ったり、試合の送り迎えをしてくれた父、毎晩肩甲骨はがしをしてくれたり、大会のお昼ご飯を作ってくれた母、大会前日に早く寝るために部屋の電気を消してくれた妹、まだ小さいのに試合に連れられてプールの近くで遊ぶしかない休日を過ごしてくれた弟、ありがとう。
スイミングのコーチ、高校の顧問
私を選手コースに入れてくれたYコーチ、1から育ててくれたFコーチ、ずっと成長を見てくれているSコーチ、高校生の時お世話になったNコーチ、伸び悩んだ時期に見捨てず優しく指導してくれて大学の記録も見てくれていたJコーチ、エネルギー効率向上練習で100mの楽しさを教えてくれたF先生、ありがとうございます。
学部の友達、中高の友達、その他色々
大会があると言ったら終わってから結果を聞いてくれて、良い報告をすれば一緒に喜んでくれて、逆にだめだった時や悩んだ時は話を聞いてくれました。心の支えでした。ありがとう。おかげで私は部活の中でいつも笑っていることができました。練習や大会があるからと遊びのお誘いを断ったことも何度もあったと思います。ごめんね。引退したので時間ある(はず)ので、いっぱい遊びに誘ってください!
電車・バスの運転手さん
(たぶんお互いに)顔を覚えるくらいに始発に乗り続けました。バスが遅れると怒鳴るおじさんもいますが、遅れても安全運転が1番です。朝早くからバスや電車を動かしていただきありがとうございます。始発が遅かったら私は朝練に行けていないので本当に感謝しています。
先輩方
悩んだ時に気にかけてくださったり、モチベーションの話やフォームの話などたくさんのことを教えていただきました。引退されてからも結果を見て連絡をくださったり、大会を見に来てくださりました。ありがとうございます。またご飯行きましょう!
マネさん
練習でタイムいらないと言ったり、ブロークンでメニューにないサークルを要求したり、レース動画のテンポ計りなおしてと言ったり、ウォッチがずれてるんじゃない?と言ったり、色々わがままを言った選手だったと思います。嫌な顔せず全部に応えてくれて、練習や大会を盛り上げてくれてありがとうございました。練習中の元気な声も、ラップ帳のコメントも、嬉しかったです。
トレーナーさん
予約表に予約せずにコンディショニングをお願いした時も、全身を軽くしてくださいと雑な要望をした時も、快くやってくれてありがとうございました。トレーナーさんなしでは疲労だらけのラストシーズンだったと思います。2月に国試を受けるため身体の知識は増えると思うので、何か質問があればぜひ頼ってください。答えられるかはわかりませんが、、、
女子選手のみんな
まずは競技面でよいしょしてくれてありがとう。リレメンの3人には特に引っ張ってもらいました。私がもうちょっと速かったら、最低限ひろせぐらいだったら、もっともっと良いところにいけるのにと何度思ったかわかりません。タイムで足を引っ張り続けてごめん。関国や関カレで表彰台に乗れたのも、全国公で入賞できたのも、みんなのおかげです。個人では見ることのなかった景色が見れました。ありがとう。他のみんなも、点数で貢献してくれたり、ベストで勢いづけてくれました。
競技以外の面でもたくさん支えてくれてありがとう。同期はもちろん、後輩にも元気づけられることや励ましてもらうことがたくさんありました。
女子主将という肩書きがあった私ですが、絶対に1人じゃなかったし、本当に本当にみんなに支えてもらいました。すごくあたたかいこのチームで、1年間女子主将ができて、選手としてラストイヤーの時間を過ごすことができて、私は幸せです。
また現役がオフに入った頃に女子会しましょう!!
同期
合宿の回生ミーティングで、勝手に幹部が決定してるなと思うことはないか聞いた時、ひろたかが、幹部の意見に賛同するからそれは大丈夫と言い、他の人もそれにうなずいていました。あのミーティングで、この同期がいれば大丈夫と思ったのを覚えています。1人1人が自分の役割を全うしていたんじゃないかな。いつでも頼れる人たちでした。
水泳に関すること、それ以外のこと、同期みんなと過ごした日々はどれも大切な思い出です。この繋がりはずっと大切にしたいと思っています。また集まろう!
後輩のみんなには1人1人にメッセージを渡すので読んでください。
6.さいごに
競泳を始めてから、ぽんと大ベストが出ることはなく、いつも少しずつベストを更新してきました。あまり速くはならなかったけど、4歳からずっと楽しく水泳を続けることができました。まだタイム伸びるんじゃないかとまったく思わないわけではないけど、ラストシーズン出し切ったし、今なら引退してもいいかなぁと思うので、引退します。もう年やしね笑、夏季長出る出る詐欺してすみません。
あぁ寂しいねぇ。
水泳大好き人間なので、これからも大会や練習に顔を出すと思います。その時はよろしくお願いします。
競泳人生の最後を、この京大水泳部で、最高の仲間たちと過ごすことができて、本当によかったです。ありがとう!!
私の将来の夢を書いて、おしまいにします。
私は、水泳を通して、たくさんの人と関わりをもち、たくさんの人に支えてもらいました。今度は私が支える番です。
誰かに笑顔と元気を与えられる人になりたい。
できていたことができなくなって、しょうがないと思ってしまう自分が悔しくて、前みたいに戻れるのかな、もうできないんじゃないかと不安で、普通に全力で練習できているみんながうらやましくて、もうどうしていいかわからない
そういう人の支えになりたい。
これは、私が中学生か高校生の頃、肩だったか、どこだったか忘れましたがどこかを痛めていた時に書いた言葉です。
高校の顧問のF先生みたいに、誰かを笑顔にさせる、活力を与えられる人になりたい。
がんばろうと努力をしようとしている人が、全力で頑張れる世界にしたい。
ずっと私の根っこの部分にある思いです。
すべての人が、心身の変化によって悩むことのないようにすることが私の大きな夢です。
今まで関わったすべての人への感謝の気持ちとともに、夢を叶えられるよう、これからも頑張っていきます!
それでは。
京都大学体育会水泳部
竹本杏美
2022 全進
2022-2023 青炎
2023-2024 総乱舞
2024-2025 STARDOM
お疲れ様です。竹本です。
引退日記を書きます。長くなるので、読む人の記憶に1番残る最初と最後に伝えたいことを書きます。
0. はじめに
私は水泳が、京大水泳部が大好きです。
大好きな水泳を、大好きな仲間たちと、ここまで続けることができてとても幸せです。
一緒に頑張った人、支えてくれた人、応援してくれた人、水泳を通してたくさんの人と関わり、たくさんの経験をしました。関わってくれたすべての人にありがとうの気持ちを伝えたいです。この日記を通して、それが少しでも伝われば幸いです。
目次
0.はじめに
1.競泳人生
2.競泳を通して私が得た教訓
3.思い出
4.幹部として、チームでの役割
5.関わったすべての人へ
6.さいごに
1.競泳人生
4才 友達が習っていて行きたいといい、スイミングに通い始める。
6才 クロールに苦戦。習得までに半年かかる。
小3?小4? 初めての大会(非公式)。セームをゲットする。
小4の夏 それまで通っていたところと違うスイミングスクールの夏休み短期教室に参加する。育成コースに推薦されましたが、飛び込み練習でゴーグルがはずれて立ってしまったら怒られたのが嫌で入りませんでした。
小5の冬 友達が上のクラスに上がったのをきっかけに、家の近くのスイミングに移籍。推薦してくれたコーチが覚えていてくださり選手育成コースに入れてもらえる。1ヶ月で50mFr1秒伸びる。
小6? 選手コースに上がる。
中学生 だんだん練習についていけなくなる。年下にどんどん抜かされ、気づいたらENはフィンをはかないと練習の邪魔になるくらいになっていました。思春期の身体の変化に技術も持久力も筋力もついていかず、以前はできていた練習ができなくなりました。肩もたくさん痛めました。それでも、私以上に私のことを諦めずに指導してくださったこの時のコーチには、本当に感謝しています。
何をモチベーションにしていたのか覚えていませんが、とりあえず水泳が好きでした。今考えると、速くなりたいという思いは特別強くはなかったように思いますが、特にやめたいと思うことはありませんでした。
高校生 北野高校を選んだのは50mプールがあるからでした。中2の頃の志望校だった茨木高校は水球の方が強そうだったのでやめました(梅とゆうごと同期だったかもしれない世界線はこの地点で消えました)。
入学してすぐ、迷わず水泳部に入りました。1年生の頃からリレーに出させてもらい、先輩にも先生にもいっぱい可愛がってもらいました。良き同期たちとかわいい後輩たちにも恵まれました。
私が1年生の時の部長さん(のちに阪大水泳部の部員となります)が引退式で話した言葉が私を京大水泳部に導くことになります。多くの先輩が思い出や感謝を述べるなかで、その先輩は、大学での目標を発表したのです。「自分は国公立に行くつもりなので、合格して全国国公立大学選手権に出ます。」この時私は全国公の存在を知りました。私も全国公に出たいと思いました。
高校の引退試合では、全国公の標準記録を切ることをひそかな目標にしていました。100Frで当時の長水路制限を突破し、まぁまぁ満足して引退しました。
大学生
2022 全進
1番に水泳部の新歓に行き、あとから練習体験に来た同期に先輩だと思われるくらいに新歓期間も毎日練習に参加していました。おそらく多くの先輩が、迷わず水泳部に入ったと思っているでしょうが、私自身は新しいことを始めるか結構迷っていました。
初めてエントリーした春短の直前にコロナ陽性になり棄権。この時、大会に行きたかった気持ちが強すぎてもう一回水泳を頑張ろうと決めました。
受験直前までちょこちょこ泳いでいたのでベスト近くまではわりとすぐ戻ったのですが、夏シーズンに生涯ベストを出すことはできませんでした。結果、100mは高校で突破したタイムを使って全国公に出ることになりました。あのとき切っててよかった。
この年の全国公で、くさかさんに、1番応援してるよ、頑張ってと言われたことは引退まで3年間心に残り続けていました。あんなに必死に努力していたくさかさんに、私は全然及ばなかったと思いますが、頑張るモチベーションになっていました。ありがとうございます。
この年、かぶっていなかったけれど面識のあった高校の先輩が引退されました。関国で予選は勝ったけれど決勝は負けてしまった先輩。決勝でタイムをあげる難しさを感じたレースでした。
2022-2023 青炎
ショート面に入れてもらい、スピードや細かい技術の能力がアップしました。冬季公認ではベストを出してMVSに選んでいただきました。この時期ゆきとさんにはものすごくお世話になりました。この時期くらいから色々考えて泳ぐのが楽しいと思うようになっていった気がします。
スピードが上がり、絶好調だった矢先、足首を捻挫。治っていないのにダラダラ練習を続けたのも良くなく、関国、七帝が潰れました。関カレで絶対復活した姿を見せようと思っていたのに前日に体調を崩し、関カレも棄権。家で寝ていましたが、入院してもいいよと言われるほどの状態でした。結局全国公の前日まで練習には参加できませんでした。
全国公もなんとか出場はしましたが、タイムは競泳を初めて1年にも満たない小学生の頃より遅かったです。200Frにいたっては、初めてレースで泳いだ時より遅くて、練習できていないにしてもショックでした。
はじめて200Frを泳いだ大会の振り返りノート
この年、間違いなく競泳人生で1番の挫折でした。競泳で1番楽しい夏が、1回分消えました。
メンタルもボロボロで、当時の主任のゆういちろうさんや女子主将のひなこさんには、特別な連絡もなく突然何日も続けて練習を休んだり、レースを棄権したり、たくさん迷惑をかけたと思います。すみません。本当に色んな人に助けてもらいました。ありがとうございます。
この年の全国公で、私を京大水泳部に導いた憧れの先輩が引退されます。当時関国で表彰台を独占するレベルだった阪大のBr面のレギュラーとしての活躍、宣言していた全国公という舞台での引退レースを見て、私も2年後、この舞台で全力を出し切って引退しようと強く思いました。
(これを書いている今は高知に向かうバスの中、無事にそれが達成できそうです)
2023-2024 総乱舞
怪我も病気も治り10月からは心機一転、4回生で実習があることを考えて、ラスト1年だと思って練習していました。さくらさんやひろせとずっと競争していたように思います。競争相手がいるって楽しい。
冬季公認、春短でやっとベストまで戻ってきました。一安心しました。
けれど、制限が上がった全国公切りは叶いませんでした。100mFrはあと0.03秒でした。めちゃくちゃ悔しかったし、応援してくれた人がいたのに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。夏季公のレース前の祈るようなくるみさんの表情をよく覚えています。あの時レースを見ていてくれたみんなの笑顔が見れなかったことが残念です。
対抗戦のリレーでは、みんなで歴代記録を確認して挑むのが楽しかったです。関カレの2継で歴代1位を更新した時のことは、1年たった今でも音声ありの映像で思い出すことができます。
歴代1位写真
後悔の1つは、さくらさんと表彰台に上れなかったことです。来年は絶対のぼってねというさくらさんの言葉。今年、叶えるところをさくらさんに見てもらえてよかったです。
この年の全国公終わりの4回生のお話の途中、くるみさんの言葉でしゃくりあげて泣いてしまいました。自分的にはそんなに重みじゃないと思っていたけれど、自分が最上回生になること、女子主将になることの不安が一気におそってきたのだと思います。自分でもびっくりしました。あのとき、からかってきたささむのことは今でも恨んでいます。
2024-2025 STARDOM
ある日の練習終わり、れいか、あい、ひろせ、ゆきとさんと話している時に、リレーでインカレに行くという話が出ました。3人のキラキラした目を見て、みんなで夢を見たいと思いました。この日に、3回生の夏が実質ラストイヤーじゃなくなりました。選手としての競泳人生が1年伸びました。私の目標タイムは1:02。当時のベストが1:07.8だったので5秒縮めなければいけませんでした。
ポンとタイムが上がることは少なく、地道に少しずつベストを更新してきた私にとって、1年で5秒縮めるのは難しい目標でした。結果的にインカレに行くことはできなかったけれど、自分ひとりでは思い描かなかったであろう夢を見させてもらいました。ありがとう。来年、期待しています!!
レース分析をしたり、動画を見たり、色んな人にアドバイスを求めてみたり、色々やりました。ある日、これまで感じたことのなかった水の感覚をつかむことができました。
長い間競泳をやってきたけれど、1番泳ぎが変わったのは、この1年だったような気がします。水の感覚を確かめながら泳ぐのがすごく楽しかったです。
実習中も気持ちを切らさずに練習することができました。
同じように実習を乗り越えてベストを出して引退されたみささんが、「帰宅したらすぐにプールに行くこと、必ずみんなと同じメニューをすること」とおっしゃったので、毎日LINEに上がるメニューを帰りのバスや電車で紙に書いてジップロックに入れてプールに持って行っていました。
練習でタイムをとってもらえること、動画を撮ってもらえること、みんなで練習できることのありがたさをすごく感じた期間でもありました。
自主練を頑張った成果が出たのか、神からお許しが出たのか、春短の4継の1泳でオンタイムで全国公を突破しました。これが私の短水路ベストです。
新入生も入部し、迎えた対抗戦1発目、関国。
出場種目は悩んだけれど、決勝への想いが強く、専門外の200Flyと200IMにしました。チームにしっかり点数をもってこれて嬉しかったです。
女子の総合順位は2位。ラッキーだった部分もあったけれど、しっかり目標を達成しました。なんだか夢みたいで、すごくすごく楽しかったです。
七帝。
50Frと100Frに出ました。どちらもベスト。100mは合わせていないのにベストが出たことに驚きでした。
50Frは決勝でタイムを落とし、確信をもって自分を2継のリレメンに選ぶタイムを出すことはできませんでした。悔しいというより情けなかったです。私が1回生の頃、4継でこのかさんと同じような状況で、出させてもらったり選ばれなかったりしたので、ギリギリで泳げない時の気持ちは知っているつもりです。だからこそ、自信を持って私が泳ぐ!と言えるタイムを出したかった。うみちゃん、ごめんね。
関カレ。
直前に目標を設定し直し、男女一部昇格をかけて戦いました。
私の出場種目は100Fr、200Fr。200Frの決勝は狙えない。100Frは9番エントリーで決勝ラインまで2秒6でした。200Frは大ベストで流れをもってくる、100Frは決勝残って点数で貢献するのが目標でした。
200Frはベストだったけど少しだけ、100Frは0.56で決勝を逃しました。
両方9番、補欠1。悔しかったけど、どちらも後半が動かなかったから実力不足でした。あの時の最大限だったから、あんまり悔しくなかった、不思議な気持ちでした。
チームとしては、目標達成、1部昇格しました!同期と後輩がたくさん点数をとってくれました。ずっと長い夢を見ているみたいでした。今でも信じられません。すごく楽しかった3日間でした。
全国公。
関カレと同じ種目でした。できることは、疲労を抜くこととレースプランを修正すること。栄養ドリンクを色々飲みました。ラップ表と動画とにらめっこして前半抑え型に修正しました。200mの後半、今までの色んなレースのラスト25mがフラッシュバックしてきました。ベスト出したレース、後半自分に負けてしまったレースの時の映像が脳裏に浮かんで、絶対に後悔しないラストにしようと思って頑張りました。
結果は自己ベストで2:30わり。200mは(しんどいので)嫌いだったのですが、このレースは泳いでいて楽しかったです。
1本目の200mが終わったら、そのまま絶好調の気持ちで、最後の4継まで泳ぎ切ることができました。
どのレースも、今までにない緊張のしかたをしたけれど、全部出し切って、最高に楽しいレースになりました。2継はあと一歩及ばなかったし、個人の100mは6秒台までもう少しだったけれど、引退試合、引退レースを、自分らしい泳ぎで締めくくれて満足です。
引退レース4継 「ひろせ」と叫んでいます
以上、
鼻に水が入って泣いて途中で帰った子が、クロールの習得に半年かかった子が、飛び込んでゴーグルがはずれて嫌になった子が、成長して嫌いな200mFrと大好きな100mFrで引退する物語でした。
2.競泳を通して私が得た教訓
①先輩後輩速い遅い関係なく、自分から貪欲に質問せよ
京大水泳部には、指導者がいません。自分で反省することも大切だけれど、自分以外の人に聞いてみると、知らない知識や感覚を共有してくれることがあります。速い人に聞くのはもちろんですが、自分よりタイムが遅い人にも聞いてみるのも色々発見があって良いと思います。
②まずは素直に1回やってみよう
質問してアドバイスをもらったら、まずやってみることをおすすめします。信頼していない人からのアドバイスは聞かない、やらない人もいると思いますが、素直に一旦信じるのが良いと思います。
③自分に合うかは自分で決める
やってみたら、それが自分に合うか、自分の感覚と相談します。誰からもらったアドバイスでも、合わなかったら取り入れなくていいし、なんか良さそうと思ったら続けてみればいいです。一人一人フォームも感覚も身体も違うので、合う合わないがあるのは当然です。判断する期間はどれくらいかが難しいのですが、やっぱり感覚なんですかね?それを感じる力が必要ですね。
④怪我や故障は無理しない
対抗戦、引退試合など、そのあと悪化しても良いときは別ですが、それ以外は無理してもいいことがありません。治るものは治ってから再開する方が良いです。その間、別の方法で前に進み続けることを忘れずに。
⑤年齢には抗えない(全国公後の最後の話の2点目はこれでした)
大学生、若い人でも引退のときは21歳です。当然疲労は抜けにくくなります。ダウン、ストレッチ、ケア、睡眠、栄養が大事です。私はラストイヤーの対抗戦、疲労回復の食べ物飲み物をひたすら摂取していました。睡眠は短かったので、反面教師にしてください。
⑥メニュー係を信じる
京大のメニュー係はすごいです。自分の時間を削ってまで毎日メニューを作ってくれます。それも適当なメニューじゃなくて、毎回しっかり考えられたメニューです。メニューの意図をしっかり読み取って意識しながら練習するのが良い結果に結びつくのではないかと思います。私はほとんど毎日遅れて練習に参加していたので、練習後にもよく泳いでいましたが、アップから練習できる人はメニューの意図通りに練習するだけで速くなるんじゃないかと思います。長期期間中や合宿で全部メニューができる時に、速くなっている感覚があったのでそう思いました。
⑦一人一人立ち止まる位置は違う
周りは伸びているのに、自分だけがこんなところで立ち止まっていると感じることがあるかもしれません。私も、100mFrの1:05.8 or 9を片手におさまらないくらい見ました。でも、立ち止まる位置が違うだけで、他の人も必ずどこかで立ち止まっています。焦らず折れず、水面下の成長を続けることが大切だと思います。
⑧それでもやるしかない
ベストが出ない時、制限が切れない時、調子が悪い時、故障をした時、うまくいかない時。不安や怒り、焦りや悲しみを自分に向けてしまう人もいるし、その矢印が周りに向いてしまう人もいるでしょう。どれもその人の苦しみにあった防御方法の一つだと思います。でも、気持ちの矢印をどこに向けたって、最終的には自分が行動するしかないです。誰に何を言われようと、自分は自分を信じてあげること、自分を信じられるだけの努力をすることが、やがてやってくる成長につながると思います。
なんだか偉そうなことを書きましたが、③にあるように、この教訓も私が得たものなので、合わないと思ったら信じなくて良いです。後輩のみんなが、1つでも何か成長できるきっかけになったら嬉しいです。
つづく
でもやっぱり、
私は、まだ何も貢献できていないのに、ここでやめたら完全に終わってしまう。
こんなに色んな人に支えてもらって、
怪我をした時期の部員のサポートとか寄り添いは本当に半端じゃなかったんです。
辞め切る覚悟を持ちきれないなら、その覚悟が出来るまでは続けるべきなんじゃないか。
という方向に気持ちは向かっていきました。
もう1回やるなら、今度こそ絶対あきらめない。
最後に続けてよかったと思う1年にする。
自分の出せる最大限の努力と結果を。
続けると決めてからは、これをオフ明けるまでの2週間くらいでじっくりじっくりと覚悟を決めていきました。
「最後に続けてよかったと思う1年にする。」
タイムの目標も立てました。
自分が怪我をせず泳ぎ続けていたであろう時の結果よりも、結果を残す。
紆余曲折を全て過程に、血と肉として、結果を出す。
速くなれそうな、強くなれそうなチャンスは全部取る。
阪神合宿も、女子一人で不安ではありましたが、行く以外考えられなかったです。
オフがあけました。
私、本当に不運の神様に好かれているんですよねえ。
よし!!出すぞ結果!!行くぞ練習!!!
て感じでスキップしてたんですけど、
肩の再発、(元々治るものではないらしいので、泳ぎだしたら痛むのは必然らしい)
水筒が足に降ってきて指の骨折、
肩の再発、
首の肉離れ、
肩の再発、
2024年が終わりました。
そして2月頃から、肩の再発はガチなものになっていき、
3・4月はほぼメイン練習できませんでした。
マネさん、組み分けしてもらったのに泳げなかったことが何回も何回もあって、本当にごめんなさい。
仕方ないって言ってくれる毎回の言葉が、ありがたかったし、申し訳なかったです。
全部泳げた練習は、週1・2くらいだったんじゃないかなあ。
草津まで行って、50mだけ泳いで、限界を迎えるなんてこともありました。
別に泳げなくても、出来る事はたくさんあると思います。
あの時の考えれあれる自分の時間のさける最大限はやっていたと思います。
体幹を1日3回やったり、バイクを週6日漕いだり、チューブも毎日出来る限り。
うーん、などなど。
でも、やっぱり、
泳がなかったら水の感覚を忘れるし、
バックを泳がなかったらバックの泳ぎ方を忘れる。
やっとなにかを掴んだと思っても、
また泳げなくなって、
水の感覚からに逆戻り、
なにを掴んだかも思い出せない。
2歩進んだら3歩下がる。
を一生繰り返していた記憶があります。
泳ぎたい。泳げない。
結果出したい。出ない。出せない。
加えて最上回なのに、
私は元々平部員で、自分の実力的にも性格的にも部に貢献できることなんて限られてて、
役職があったり影響力の大きい同期たちが、全体に色を塗ってくれるから。
色が薄くなっていたり、手の届いていない隅っこに色を足そう。
私が、去年の夏、見失ってしまった部活での居場所を。
誰一人、同じ思いをしてほしくなくて、
毎日、誰かのほんの少しの気持ちをワンアップというのを目標にしていましたが、
自分のことで精いっぱいな期間も長かったです。
人には人の地獄があるっていうじゃないですか。
それにも気づいていたのに、なのに、
自分でいっぱいになっていることが多すぎて、
自分にとってのラストイヤー
周りにとっての最上回
どちらもうまく出来ていない気しかしなくて、
自己嫌悪で最悪の状態でした。
少しずつ、ほんの少しずつ、
自分の選手としての結果を諦めていくようになっているのが分かっていました。
せめて後輩にだけでも。
自分のラストイヤーとしての結果は出せなくても。
最上回として、誰かがしんどそうな時に寄り添える心の余裕を、
自分の泳げない事へのしんどさを諦めることで作り出すようになっていました。
(今書いてて思ったけど、なんか必死にもがいていましたねえ。この時期。
うーーーーーーーん。)
1年間心に決めていた
「最後までやり続けて、諦めなくてよかったと思える1年にする」
これは、泳ぎもできない結果も出せない時期の自分にとっては、
呪縛のように自分の首をしめていました。
でも一方で、やっぱり心が折れそうなときの支えで、折れ切らない理由にもなってしまっていました。
「んーーーでも、私は結果出せていないからねえ~」
これはこれで何を言われてもこれを口癖のようにいってしまっていたし、思っていました。
何に対しても自信を失って、
でもなにも諦めきれない逃げきれない、
でも答えはでない、
ずっと悩んでいた時期でした。