お疲れ様です。竹本です。
引退日記を書きます。長くなるので、読む人の記憶に1番残る最初と最後に伝えたいことを書きます。
0. はじめに
私は水泳が、京大水泳部が大好きです。
大好きな水泳を、大好きな仲間たちと、ここまで続けることができてとても幸せです。
一緒に頑張った人、支えてくれた人、応援してくれた人、水泳を通してたくさんの人と関わり、たくさんの経験をしました。関わってくれたすべての人にありがとうの気持ちを伝えたいです。この日記を通して、それが少しでも伝われば幸いです。
目次
0.はじめに
1.競泳人生
2.競泳を通して私が得た教訓
3.思い出
4.幹部として、チームでの役割
5.関わったすべての人へ
6.さいごに
1.競泳人生
4才 友達が習っていて行きたいといい、スイミングに通い始める。
6才 クロールに苦戦。習得までに半年かかる。
小3?小4? 初めての大会(非公式)。セームをゲットする。
小4の夏 それまで通っていたところと違うスイミングスクールの夏休み短期教室に参加する。育成コースに推薦されましたが、飛び込み練習でゴーグルがはずれて立ってしまったら怒られたのが嫌で入りませんでした。
小5の冬 友達が上のクラスに上がったのをきっかけに、家の近くのスイミングに移籍。推薦してくれたコーチが覚えていてくださり選手育成コースに入れてもらえる。1ヶ月で50mFr1秒伸びる。
小6? 選手コースに上がる。
中学生 だんだん練習についていけなくなる。年下にどんどん抜かされ、気づいたらENはフィンをはかないと練習の邪魔になるくらいになっていました。思春期の身体の変化に技術も持久力も筋力もついていかず、以前はできていた練習ができなくなりました。肩もたくさん痛めました。それでも、私以上に私のことを諦めずに指導してくださったこの時のコーチには、本当に感謝しています。
何をモチベーションにしていたのか覚えていませんが、とりあえず水泳が好きでした。今考えると、速くなりたいという思いは特別強くはなかったように思いますが、特にやめたいと思うことはありませんでした。
高校生 北野高校を選んだのは50mプールがあるからでした。中2の頃の志望校だった茨木高校は水球の方が強そうだったのでやめました(梅とゆうごと同期だったかもしれない世界線はこの地点で消えました)。
入学してすぐ、迷わず水泳部に入りました。1年生の頃からリレーに出させてもらい、先輩にも先生にもいっぱい可愛がってもらいました。良き同期たちとかわいい後輩たちにも恵まれました。
私が1年生の時の部長さん(のちに阪大水泳部の部員となります)が引退式で話した言葉が私を京大水泳部に導くことになります。多くの先輩が思い出や感謝を述べるなかで、その先輩は、大学での目標を発表したのです。「自分は国公立に行くつもりなので、合格して全国国公立大学選手権に出ます。」この時私は全国公の存在を知りました。私も全国公に出たいと思いました。
高校の引退試合では、全国公の標準記録を切ることをひそかな目標にしていました。100Frで当時の長水路制限を突破し、まぁまぁ満足して引退しました。
大学生
2022 全進
1番に水泳部の新歓に行き、あとから練習体験に来た同期に先輩だと思われるくらいに新歓期間も毎日練習に参加していました。おそらく多くの先輩が、迷わず水泳部に入ったと思っているでしょうが、私自身は新しいことを始めるか結構迷っていました。
初めてエントリーした春短の直前にコロナ陽性になり棄権。この時、大会に行きたかった気持ちが強すぎてもう一回水泳を頑張ろうと決めました。
受験直前までちょこちょこ泳いでいたのでベスト近くまではわりとすぐ戻ったのですが、夏シーズンに生涯ベストを出すことはできませんでした。結果、100mは高校で突破したタイムを使って全国公に出ることになりました。あのとき切っててよかった。
この年の全国公で、くさかさんに、1番応援してるよ、頑張ってと言われたことは引退まで3年間心に残り続けていました。あんなに必死に努力していたくさかさんに、私は全然及ばなかったと思いますが、頑張るモチベーションになっていました。ありがとうございます。
この年、かぶっていなかったけれど面識のあった高校の先輩が引退されました。関国で予選は勝ったけれど決勝は負けてしまった先輩。決勝でタイムをあげる難しさを感じたレースでした。
2022-2023 青炎
ショート面に入れてもらい、スピードや細かい技術の能力がアップしました。冬季公認ではベストを出してMVSに選んでいただきました。この時期ゆきとさんにはものすごくお世話になりました。この時期くらいから色々考えて泳ぐのが楽しいと思うようになっていった気がします。
スピードが上がり、絶好調だった矢先、足首を捻挫。治っていないのにダラダラ練習を続けたのも良くなく、関国、七帝が潰れました。関カレで絶対復活した姿を見せようと思っていたのに前日に体調を崩し、関カレも棄権。家で寝ていましたが、入院してもいいよと言われるほどの状態でした。結局全国公の前日まで練習には参加できませんでした。
全国公もなんとか出場はしましたが、タイムは競泳を初めて1年にも満たない小学生の頃より遅かったです。200Frにいたっては、初めてレースで泳いだ時より遅くて、練習できていないにしてもショックでした。
はじめて200Frを泳いだ大会の振り返りノート
この年、間違いなく競泳人生で1番の挫折でした。競泳で1番楽しい夏が、1回分消えました。
メンタルもボロボロで、当時の主任のゆういちろうさんや女子主将のひなこさんには、特別な連絡もなく突然何日も続けて練習を休んだり、レースを棄権したり、たくさん迷惑をかけたと思います。すみません。本当に色んな人に助けてもらいました。ありがとうございます。
この年の全国公で、私を京大水泳部に導いた憧れの先輩が引退されます。当時関国で表彰台を独占するレベルだった阪大のBr面のレギュラーとしての活躍、宣言していた全国公という舞台での引退レースを見て、私も2年後、この舞台で全力を出し切って引退しようと強く思いました。
(これを書いている今は高知に向かうバスの中、無事にそれが達成できそうです)
2023-2024 総乱舞
怪我も病気も治り10月からは心機一転、4回生で実習があることを考えて、ラスト1年だと思って練習していました。さくらさんやひろせとずっと競争していたように思います。競争相手がいるって楽しい。
冬季公認、春短でやっとベストまで戻ってきました。一安心しました。
けれど、制限が上がった全国公切りは叶いませんでした。100mFrはあと0.03秒でした。めちゃくちゃ悔しかったし、応援してくれた人がいたのに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。夏季公のレース前の祈るようなくるみさんの表情をよく覚えています。あの時レースを見ていてくれたみんなの笑顔が見れなかったことが残念です。
対抗戦のリレーでは、みんなで歴代記録を確認して挑むのが楽しかったです。関カレの2継で歴代1位を更新した時のことは、1年たった今でも音声ありの映像で思い出すことができます。
歴代1位写真
後悔の1つは、さくらさんと表彰台に上れなかったことです。来年は絶対のぼってねというさくらさんの言葉。今年、叶えるところをさくらさんに見てもらえてよかったです。
この年の全国公終わりの4回生のお話の途中、くるみさんの言葉でしゃくりあげて泣いてしまいました。自分的にはそんなに重みじゃないと思っていたけれど、自分が最上回生になること、女子主将になることの不安が一気におそってきたのだと思います。自分でもびっくりしました。あのとき、からかってきたささむのことは今でも恨んでいます。
2024-2025 STARDOM
ある日の練習終わり、れいか、あい、ひろせ、ゆきとさんと話している時に、リレーでインカレに行くという話が出ました。3人のキラキラした目を見て、みんなで夢を見たいと思いました。この日に、3回生の夏が実質ラストイヤーじゃなくなりました。選手としての競泳人生が1年伸びました。私の目標タイムは1:02。当時のベストが1:07.8だったので5秒縮めなければいけませんでした。
ポンとタイムが上がることは少なく、地道に少しずつベストを更新してきた私にとって、1年で5秒縮めるのは難しい目標でした。結果的にインカレに行くことはできなかったけれど、自分ひとりでは思い描かなかったであろう夢を見させてもらいました。ありがとう。来年、期待しています!!
レース分析をしたり、動画を見たり、色んな人にアドバイスを求めてみたり、色々やりました。ある日、これまで感じたことのなかった水の感覚をつかむことができました。
長い間競泳をやってきたけれど、1番泳ぎが変わったのは、この1年だったような気がします。水の感覚を確かめながら泳ぐのがすごく楽しかったです。
実習中も気持ちを切らさずに練習することができました。
同じように実習を乗り越えてベストを出して引退されたみささんが、「帰宅したらすぐにプールに行くこと、必ずみんなと同じメニューをすること」とおっしゃったので、毎日LINEに上がるメニューを帰りのバスや電車で紙に書いてジップロックに入れてプールに持って行っていました。
練習でタイムをとってもらえること、動画を撮ってもらえること、みんなで練習できることのありがたさをすごく感じた期間でもありました。
自主練を頑張った成果が出たのか、神からお許しが出たのか、春短の4継の1泳でオンタイムで全国公を突破しました。これが私の短水路ベストです。
新入生も入部し、迎えた対抗戦1発目、関国。
出場種目は悩んだけれど、決勝への想いが強く、専門外の200Flyと200IMにしました。チームにしっかり点数をもってこれて嬉しかったです。
女子の総合順位は2位。ラッキーだった部分もあったけれど、しっかり目標を達成しました。なんだか夢みたいで、すごくすごく楽しかったです。
七帝。
50Frと100Frに出ました。どちらもベスト。100mは合わせていないのにベストが出たことに驚きでした。
50Frは決勝でタイムを落とし、確信をもって自分を2継のリレメンに選ぶタイムを出すことはできませんでした。悔しいというより情けなかったです。私が1回生の頃、4継でこのかさんと同じような状況で、出させてもらったり選ばれなかったりしたので、ギリギリで泳げない時の気持ちは知っているつもりです。だからこそ、自信を持って私が泳ぐ!と言えるタイムを出したかった。うみちゃん、ごめんね。
関カレ。
直前に目標を設定し直し、男女一部昇格をかけて戦いました。
私の出場種目は100Fr、200Fr。200Frの決勝は狙えない。100Frは9番エントリーで決勝ラインまで2秒6でした。200Frは大ベストで流れをもってくる、100Frは決勝残って点数で貢献するのが目標でした。
200Frはベストだったけど少しだけ、100Frは0.56で決勝を逃しました。
両方9番、補欠1。悔しかったけど、どちらも後半が動かなかったから実力不足でした。あの時の最大限だったから、あんまり悔しくなかった、不思議な気持ちでした。
チームとしては、目標達成、1部昇格しました!同期と後輩がたくさん点数をとってくれました。ずっと長い夢を見ているみたいでした。今でも信じられません。すごく楽しかった3日間でした。
全国公。
関カレと同じ種目でした。できることは、疲労を抜くこととレースプランを修正すること。栄養ドリンクを色々飲みました。ラップ表と動画とにらめっこして前半抑え型に修正しました。200mの後半、今までの色んなレースのラスト25mがフラッシュバックしてきました。ベスト出したレース、後半自分に負けてしまったレースの時の映像が脳裏に浮かんで、絶対に後悔しないラストにしようと思って頑張りました。
結果は自己ベストで2:30わり。200mは(しんどいので)嫌いだったのですが、このレースは泳いでいて楽しかったです。
1本目の200mが終わったら、そのまま絶好調の気持ちで、最後の4継まで泳ぎ切ることができました。
どのレースも、今までにない緊張のしかたをしたけれど、全部出し切って、最高に楽しいレースになりました。2継はあと一歩及ばなかったし、個人の100mは6秒台までもう少しだったけれど、引退試合、引退レースを、自分らしい泳ぎで締めくくれて満足です。
引退レース4継 「ひろせ」と叫んでいます
以上、
鼻に水が入って泣いて途中で帰った子が、クロールの習得に半年かかった子が、飛び込んでゴーグルがはずれて嫌になった子が、成長して嫌いな200mFrと大好きな100mFrで引退する物語でした。
2.競泳を通して私が得た教訓
①先輩後輩速い遅い関係なく、自分から貪欲に質問せよ
京大水泳部には、指導者がいません。自分で反省することも大切だけれど、自分以外の人に聞いてみると、知らない知識や感覚を共有してくれることがあります。速い人に聞くのはもちろんですが、自分よりタイムが遅い人にも聞いてみるのも色々発見があって良いと思います。
②まずは素直に1回やってみよう
質問してアドバイスをもらったら、まずやってみることをおすすめします。信頼していない人からのアドバイスは聞かない、やらない人もいると思いますが、素直に一旦信じるのが良いと思います。
③自分に合うかは自分で決める
やってみたら、それが自分に合うか、自分の感覚と相談します。誰からもらったアドバイスでも、合わなかったら取り入れなくていいし、なんか良さそうと思ったら続けてみればいいです。一人一人フォームも感覚も身体も違うので、合う合わないがあるのは当然です。判断する期間はどれくらいかが難しいのですが、やっぱり感覚なんですかね?それを感じる力が必要ですね。
④怪我や故障は無理しない
対抗戦、引退試合など、そのあと悪化しても良いときは別ですが、それ以外は無理してもいいことがありません。治るものは治ってから再開する方が良いです。その間、別の方法で前に進み続けることを忘れずに。
⑤年齢には抗えない(全国公後の最後の話の2点目はこれでした)
大学生、若い人でも引退のときは21歳です。当然疲労は抜けにくくなります。ダウン、ストレッチ、ケア、睡眠、栄養が大事です。私はラストイヤーの対抗戦、疲労回復の食べ物飲み物をひたすら摂取していました。睡眠は短かったので、反面教師にしてください。
⑥メニュー係を信じる
京大のメニュー係はすごいです。自分の時間を削ってまで毎日メニューを作ってくれます。それも適当なメニューじゃなくて、毎回しっかり考えられたメニューです。メニューの意図をしっかり読み取って意識しながら練習するのが良い結果に結びつくのではないかと思います。私はほとんど毎日遅れて練習に参加していたので、練習後にもよく泳いでいましたが、アップから練習できる人はメニューの意図通りに練習するだけで速くなるんじゃないかと思います。長期期間中や合宿で全部メニューができる時に、速くなっている感覚があったのでそう思いました。
⑦一人一人立ち止まる位置は違う
周りは伸びているのに、自分だけがこんなところで立ち止まっていると感じることがあるかもしれません。私も、100mFrの1:05.8 or 9を片手におさまらないくらい見ました。でも、立ち止まる位置が違うだけで、他の人も必ずどこかで立ち止まっています。焦らず折れず、水面下の成長を続けることが大切だと思います。
⑧それでもやるしかない
ベストが出ない時、制限が切れない時、調子が悪い時、故障をした時、うまくいかない時。不安や怒り、焦りや悲しみを自分に向けてしまう人もいるし、その矢印が周りに向いてしまう人もいるでしょう。どれもその人の苦しみにあった防御方法の一つだと思います。でも、気持ちの矢印をどこに向けたって、最終的には自分が行動するしかないです。誰に何を言われようと、自分は自分を信じてあげること、自分を信じられるだけの努力をすることが、やがてやってくる成長につながると思います。
なんだか偉そうなことを書きましたが、③にあるように、この教訓も私が得たものなので、合わないと思ったら信じなくて良いです。後輩のみんなが、1つでも何か成長できるきっかけになったら嬉しいです。
つづく
でもやっぱり、
私は、まだ何も貢献できていないのに、ここでやめたら完全に終わってしまう。
こんなに色んな人に支えてもらって、
怪我をした時期の部員のサポートとか寄り添いは本当に半端じゃなかったんです。
辞め切る覚悟を持ちきれないなら、その覚悟が出来るまでは続けるべきなんじゃないか。
という方向に気持ちは向かっていきました。
もう1回やるなら、今度こそ絶対あきらめない。
最後に続けてよかったと思う1年にする。
自分の出せる最大限の努力と結果を。
続けると決めてからは、これをオフ明けるまでの2週間くらいでじっくりじっくりと覚悟を決めていきました。
「最後に続けてよかったと思う1年にする。」
タイムの目標も立てました。
自分が怪我をせず泳ぎ続けていたであろう時の結果よりも、結果を残す。
紆余曲折を全て過程に、血と肉として、結果を出す。
速くなれそうな、強くなれそうなチャンスは全部取る。
阪神合宿も、女子一人で不安ではありましたが、行く以外考えられなかったです。
オフがあけました。
私、本当に不運の神様に好かれているんですよねえ。
よし!!出すぞ結果!!行くぞ練習!!!
て感じでスキップしてたんですけど、
肩の再発、(元々治るものではないらしいので、泳ぎだしたら痛むのは必然らしい)
水筒が足に降ってきて指の骨折、
肩の再発、
首の肉離れ、
肩の再発、
2024年が終わりました。
そして2月頃から、肩の再発はガチなものになっていき、
3・4月はほぼメイン練習できませんでした。
マネさん、組み分けしてもらったのに泳げなかったことが何回も何回もあって、本当にごめんなさい。
仕方ないって言ってくれる毎回の言葉が、ありがたかったし、申し訳なかったです。
全部泳げた練習は、週1・2くらいだったんじゃないかなあ。
草津まで行って、50mだけ泳いで、限界を迎えるなんてこともありました。
別に泳げなくても、出来る事はたくさんあると思います。
あの時の考えれあれる自分の時間のさける最大限はやっていたと思います。
体幹を1日3回やったり、バイクを週6日漕いだり、チューブも毎日出来る限り。
うーん、などなど。
でも、やっぱり、
泳がなかったら水の感覚を忘れるし、
バックを泳がなかったらバックの泳ぎ方を忘れる。
やっとなにかを掴んだと思っても、
また泳げなくなって、
水の感覚からに逆戻り、
なにを掴んだかも思い出せない。
2歩進んだら3歩下がる。
を一生繰り返していた記憶があります。
泳ぎたい。泳げない。
結果出したい。出ない。出せない。
加えて最上回なのに、
私は元々平部員で、自分の実力的にも性格的にも部に貢献できることなんて限られてて、
役職があったり影響力の大きい同期たちが、全体に色を塗ってくれるから。
色が薄くなっていたり、手の届いていない隅っこに色を足そう。
私が、去年の夏、見失ってしまった部活での居場所を。
誰一人、同じ思いをしてほしくなくて、
毎日、誰かのほんの少しの気持ちをワンアップというのを目標にしていましたが、
自分のことで精いっぱいな期間も長かったです。
人には人の地獄があるっていうじゃないですか。
それにも気づいていたのに、なのに、
自分でいっぱいになっていることが多すぎて、
自分にとってのラストイヤー
周りにとっての最上回
どちらもうまく出来ていない気しかしなくて、
自己嫌悪で最悪の状態でした。
少しずつ、ほんの少しずつ、
自分の選手としての結果を諦めていくようになっているのが分かっていました。
せめて後輩にだけでも。
自分のラストイヤーとしての結果は出せなくても。
最上回として、誰かがしんどそうな時に寄り添える心の余裕を、
自分の泳げない事へのしんどさを諦めることで作り出すようになっていました。
(今書いてて思ったけど、なんか必死にもがいていましたねえ。この時期。
うーーーーーーーん。)
1年間心に決めていた
「最後までやり続けて、諦めなくてよかったと思える1年にする」
これは、泳ぎもできない結果も出せない時期の自分にとっては、
呪縛のように自分の首をしめていました。
でも一方で、やっぱり心が折れそうなときの支えで、折れ切らない理由にもなってしまっていました。
「んーーーでも、私は結果出せていないからねえ~」
これはこれで何を言われてもこれを口癖のようにいってしまっていたし、思っていました。
何に対しても自信を失って、
でもなにも諦めきれない逃げきれない、
でも答えはでない、
ずっと悩んでいた時期でした。