お疲れ様です。
引退日記トップバッター、4回生の奥田幸登です。
最初に!!!!!
8/8の4回生ラスト練習&スイカ割り
院試が被ってしまったので、僕は行けません!!!!
なので、8/6(火)に京大プールで写真いっぱい撮って欲しいです!!!!
院試非情すぎるよおお
ラスト練習、行きたかったなあ、夏っぽいこともしたかったなあ
練習あと7回
最後まで、朝練無遅刻貫きます!!!
盛り上げていきます!!!!
まず初めに、(2回目)
大学へ行かせてくれて、水泳をずっと応援してくれた両親、踏水会などの金銭的支援をして頂いた京泳会OBOGの皆さん、練習を運営してくださったマネの皆さん、疲れた体を労ってくれたトレーナーの皆さん、僕より断然高いレベルの努力と結果で刺激をくれた皆さん、平泳ぎを、水泳の面白さを真っ直ぐに教えてくれたコーチ、先生方、そして応援してくれた皆さん、本当にありがとうございました。1人では決してここまで来られませんでした。今に至るまで水泳を続けることができた身を、本当に幸せに感じます。
いろいろ振り返ってみると、練習メニューを考えてる時間が本当に大きかったですね。朝パ行っても、授業行っても、バイトしてても、家でくつろいでても、明日のメニュー何しよう、とか今日のメニューどうやったかな、丁度よかったかな、とかいろいろ考えてました。そんな生活とももう少しでおさらばです、メニュー無くなったら僕って何考えて生きてんのやろってくらいには少し心配になります。
2回生からメニュー作り始めて、その総数は・・・
170でした!!
あわわわわわわわ
40単位くらいはもらえるんちゃうん。
こんなにも練習メニューを作らせて頂いて、拙い練習メニューに付き合ってもらった選手の皆さん、スタッフの皆さんありがとうございます。
特にショートを長いことやってくれた、ささむ、中堂、藍、桜、璃子ありがとう。
1人やったら練習をするどころか、楽しむことも追い込むこともできやんかった。正直一番思ってるんは、なかなか結果出せやんかった自分やったけど、それでもついてきてくれて本当にありがとう。
ショート面の絆は絶やさず、残していってほしいな、よろしく頼んだで、ささむ。
泉さん、馬場さん、じろう先輩から受け継いだもん、託すで。
そろぼち引退日記に入ります。
~構成~
1. 競技面
2. 伝えたいこと
3. みんなへ
1. 競技面
中高時代
当時S1 Brスイマーでした。50Frは楽しむために出てるくらい。三重での水泳の生きがいはベストを出して、県の大会で表彰台に上ることでした。とにかく上があるなら上へ上へ。毎日お母さんが練習で撮ってくれる動画を、ご飯食べながらにらめっこして、反省が終わったら世界記録の泳ぎだったり、水泳の特集をYouTubeでずっと見てるような水泳少年でした。京大でも練習動画にめっちゃ拘ってるのは、こういう経緯です。けれども全国大会には出たことはなく、そこを目指して練習に明け暮れる日々でした。まだ見たことのない景色をこの目で見たかった。
高校で初めて水泳「部」に入り、高校から水泳を始めてメキメキ努力して進化していく選手の姿だったり、インハイ行くためならと筑波大学遠征まで連れてってくれた顧問、本気でインハイを目指す同期や先輩に囲まれて多くの刺激を受けました。よく大世君やじろう先輩、栞優と1本、勝負してた気がします。この時期に、「才能」とか「努力」とかいろいろ考えさせられました。同期の栞優が自主練で200*8 2:30 Flyでやってたのを見たときは頭をかなづちで叩かれたかのような衝撃を受けました。高2で結構伸びたんですが、高3のラストイヤーでコロナああ。。結局、JO、全中、インハイには届きませんでした。インカレ切るぞ~~ということで大学生編へ。
1回生
コロナの規制で朝練が8:00スタートでした。1限が週4で入ってた当時は、ほぼ全体練に参加できず、寂しかったです。思い出と言えば、京介さん(6)と裕一朗さん(5)とじろう先輩(5)と琵琶湖一周しました。大会会場が毎回県外で、遠出というのも新鮮でずっとワクワクしてました。
全国公が制限つきだったのですが、何とか出場。100Brに関しては32人の制限の中32番目という滑り込みでした、あぶない。一応全国大会ではあったのですが、高校の頃、全国公を意識する前に標準を切っていて、自分が求めて手に入れたものではなかったので、何かちゃうって感じでした。インカレを切りたい、50Fr 23.03。あと0.81秒、行ける。
このたくと可愛い。
2回生
運動生理学、解剖学、バイメカ、いろいろ勉強しました。
速くなるための解像度が上がっていく感じがして、まだまだ速くなれる方法はいっぱいあるんじゃないかとワクワクしました。この年に入部してくれた愛やFr面、地元のクラブのコーチ、高校の同期などにたくさんアドバイスを求めて、理想の泳ぎを追求しました。
その結果、2022/6 関西CS
会心のレース
50Fr 24.38
生涯ベストを4年ぶりに0.43秒更新できました。
思いっきり水面叩いてガッツポーズしました。最高の瞬間でした。
止まっていた時計の針がやっと動き出したなって感じ。
今でもこのときの動画見返したりします。
動画の最後に、電光掲示板のタイム見てうぉっって驚いてくれてる加奈さんの声入ってて、何気に嬉しかったです。
一方でBrに関しては時間がまき戻りました。あれれ。
全国公100Br 1:11.07
中2より遅い。ちゃんと練習してきたのに。。。
このとき2つのことを心に決めました。
①Brを引退する。
2種目両刀の難しさを感じました。Fr専門になって、50Frだけじゃなくて100Frもちゃんとやる。種目絞ってインカレ切る。
②頑張った人は報われてほしい。
練習頑張ったのに結果が出ないのは悔しい。努力の方向性、アプローチが間違っていたのではないか。なら練習メニューというアプローチを正しい方向に向けることで、頑張った人が結果を出せるメニューを作りたい。ベストを出して水泳楽しいって思ってもらいたい。
これは今も変わらないメニュー作りの駆動力です。
秋から本格的にメニュー作成スタート。
元日本代表コーチの米川コーチとZoom対談をしました。さらに僕の心のワクワクに火をつけました。可能性がジュワジュワ溢れてましたね。その後、方向性の違いでいろいろあったりもしましたが、冬季公認でショートの皆が全員ベストを達成できたのは良い思い出です。
こんときショート多かったなあ
強化練組、夏の100*40本からよくここまで頑張ってきたなあ。
3回生
中堂、藍が入ってきました、速すぎる。
Fr Short面が賑やかになって良き良き。
川根の家でたこを10^4個くらい焼いた気がする。
当時の4回生の引退はまじで寂しかった。
______________________
3回生秋~
何より結果に拘り続けた1年でした。
19年間、水泳をやってきたからには最後に、水泳ちゃんとやってたんやぞってくらいの結果が欲しかった。費やした時間に意味を見いだせるだけのものが欲しかった。あの時間が無意味なものだとは思いたくなかった。平凡な自分なりに何か目に見える形のものを残したかった。それがインカレへ向けた最後の1年でした。
まずは50Frで勝負するためにパワーが必要だと考え、身体を作りました。
1回生 京大水泳部初めての練習(60kg)
3回生 春合宿(70kg)
ストレッチも毎日し、ドライも勉強して速い人の話聞いたりして内容を研究し、多くのものを取りこぼしながら、水泳に割けるだけ時間を割いてきました。練習の取り組みもメニューの期分けを再考し、シーズン初めの方から、乳酸生成能力を鍛える練習を入れ、その後に乳酸(が多量に出る状況)に耐える練習、レースペース練習へと繋げる試みを行いました。また、実際の取り組みも、レースで使えない泳ぎ、出力の練習をしても意味が無いと考え、GSなどの耐乳酸も1本目から26秒台頭で突っ込んで、そこから何本耐えられるか、という意識に変えていきました。
今まで通りに頑張ったってきっと何も変えられない。自分を変える、越えるためには、想像の範疇にとどまっていてはいけない。何かをかなぐり捨ててでも、手に入れたいものがある。
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そして惨めな思いをすることも多かった1年でした。
インカレを切るどころか、自分のベストにすら及ばず、「まだ」何にも結果を残せていません。
過去最高に本気で挑んで思いっきり壁にぶつかって虚無った冬季公認
後輩たちがどんどん先へ進み、夏レギュラーさえもないんじゃないかと絶望した春室
心の底から、死にたいくらい悔しかった関国
結局100Frの方ではレギュラーを取れず、50Fr, 100Brになりました。なんで泳いでないBrが調子そこそこええねんって感じではありましたが。けれども、100Brは僕の水泳の原点ですし、Brに始まり、Brに終わるのも悪くないなと。何よりBrから水泳の楽しさを教えてくれた恩師に、最後にBrを泳いでるところを、中高のときより速くなった姿を見せたかった。
ですが、50Frも100Brも関国で決勝に残れませんでした。
大学水泳4年目にして初めての2種目予選落ちでした。
己の非力さに絶望しました、こんなに本気で水泳と向き合ってきたのに、温かい言葉で応援してくれる人もいるのに、なんで自分は一番大事なところで結果を残せないんや。
全力で声出して他の選手を応援したり、100Brまあまあのタイムで少し喜んだふりをして、周りに心配かけないようにしていましたが、悔しさのコップは表面張力すれすれでした。誰かに触れられたら間違いなく決壊してしまう。応援や励ましの言葉さえも怖かったので逃げてました。チームの雰囲気、流れは絶対に崩してはいけない。笹村と中堂が背中合わせでセンターレーン陣取ってる、かっこええなあ、その隣に立つはずやったのに。何があかんかったんや。どこで間違えたんや。周りの目も、言葉も、全部怖いし、意味分からん思考までしてて、心の中はグチャグチャでした。
いつもなら大抵のことは何か失敗しても機械的にすぐ、次はああしようとか、この練習足りてなかったからこれやればまだ上がる、とか考えるんですがねえ。
3回秋以降、結果を出せていない理由はおそらく3つです。
・指導者がいない。
試せることは全てやってきました。だからこそ、次どうすればいいか分からない、というのは結構なストレスでした。泳ぎの変化を見て指導してくれたり、アプローチに迷ったときに相談できたり、努力レベルが落ちているときに喝を入れてくれる存在の重要性をとても強く感じました。指導者はいなくてもそれに代わる存在はいるので、もっと人に頼れば良かったなと思います。
・今の体で最適な体の動きを会得できていない
以前の最適な体の動かし方を、筋肉を10 kg増やした後の体でやっても、それは最適な体の使い方とは限りません。ほとんどの場合、不適でしょう。競技生活のほとんど、約9年を60~65 kgの体で過ごした自分にとって、70 kgでの体はあまりに不慣れでした。体が沈んで、水感が無くなっていく感じ。かといって、痩せすぎと言われることのが多かった人生なので、筋肉だけ減らすことはchallengingなことでしたし、何より筋力を増やした体の方が、動かし方を覚えれば最終到達地点は上だろうという確信があったので体重を戻すことはしませんでした。ということで今は浮き感、水感を取り戻すために、可動域を拡げながら、水中練習増やしてます。身体を根本的に変えようと思ってる選手、早めの時期にやっておくことをオススメします。ラストイヤーでやるには時間が短すぎました。
・目標を声に出すことが減った
インカレという目標に対して、どんどん遠のいていく自分と過ぎゆく時間に焦り、目標を口に出すことが憚られていきました。ただの弱さです。インカレという目標を強く意識しすぎたせいで、ガチガチに固まって思うようなパフォーマンスができなかったことも多々ありました。なので、ある時期からインカレを目指すことより、「良い泳ぎ」を追求し、その先のインカレという意識に変えました。これによりレースで少し思うような動きができるようになったのですが、目標への意識が遠のいていき、メラメラ燃えるものが少しばかり減ってしまったように感じます。
「目標を口に出す」というのは絶対にやった方が良いです。何度も。口に出すことで強い目標へのビジョンが立ち、日々の行動が変わります。朝起きるのが辛いときとか、今週体キツくて筋トレ行こうか迷ってるときとか。また、周りに聞いてもらうことで、後に引けなくなります。逆に目標を言わないのは達成できなかったときの保険です。目標を話す時間は相手にとっても無駄な時間ではないと思います。人間のなすことは全て意味があり、それは誰かと相互作用します。目標を話した相手もモチベが上がって、より水泳のことを考えるようになるかもしれません。そうして相手の行動も変われば、それを見た自分も巡り巡って刺激を受けるかもしれません。こうやって高め合える、夢を共有し合える状況を自らもっと作り出していくべきでした。目標を話す、というのは自分のためにもチームのためにもなりえます。
心がバキッと折られるようなことも多かった1年ですが、それでも前を向き続けられたのは、間違いなく応援してくれた人のおかげです。どれだけ結果が出なくても、璃子が良かったところを褒めてくれて、次こそは!て言ってくれたり、南利さんが何も言わずに肩をもんでくれたり、わっちが幸登さんにはまじで結果出して欲しいって思ってます、て言ってくれたり、萌来が相談乗ってくれたり、たくとが最後くらい結果出せよ、て言ってくれたり。他にもたくさんの人が気にかけてくれてて、それが本当に励みになりました。この引退間際の時期に馬場さん(6)、じろう先輩(5)にご飯連れてってもらえたのも個人的に激アツでした。Short面の絆を感じました。僕だけが目指してた目標かと思ったら、周りにそれを見てくれている人がいて、背中を押してくれる、それがなんて幸せなことか。
今年の関チャで100Frのベストを5年ぶりに更新できてよっしゃああああって感じで観客席戻ったんですが、璃子が僕より喜んでるんじゃねってくらいに喜んでくれてて、それを見て内心ウルウルしてました。今回の大会の個人的MVSはゆきとさんです!って言ってくれたんも、一生忘れません。MVSなんてもらったことなかったので。愛も、楽しそうに水泳やってるゆきとさん見れて良かったです、て言ってくれて、他にも温かい言葉をたくさんもらって、1人じゃなかったんや、こんなにも本気で応援してくれてたんやって実感できました。久しぶりに朱色のラップ表を見ましたし、その日は久しぶりに高揚感で眠れない夜でした。
レースを頑張る駆動力はもちろん自分のためですが、自分が結果出せてそれで喜んでる人もいるなら、さらにあとちょっと頑張れるな、て思えます。応援は1人じゃ感じられなかったものを感じさせてくれます。1人よりずっと楽しいです。応援してくれた皆、本当にありがとう。
今までの競泳人生を振り返れば、中学からの年度ベストはこんな感じでした。赤字が生涯ベストです。
インカレには全然届きませんでしたが、高校までのベストは微量ながら大学で更新できています。
けれども!!!!!!!!!!
ここまで来たら大4のとこ、50Frも100Brも赤くして終わってやります!!
過程にこそ意味があると人は言いますが、そんな綺麗事には興味ありません。
もちろん、水泳をやってきたからこそ、この先の将来も、挑戦し続ける、何かを追い求め続けられるような人生でありたいですが。それはいつの間にか水泳を通してそんな人生観に染まっただけ。その価値観を手に入れるために水泳をやっていると、考えたことは一度もない。
「結果」をずっと追い求めてきたから。
最後に水泳と本気で向き合ってきた1年間に意味があったと言えるように、19年の水泳人生の最後が良いものであるように。
最後の最後まで足掻き続けます。
そして目に見える0.01秒のタイムで、関カレ、全国公、証明してみせます。
あと少し、応援よろしくお願いします!!!
~ブレイクタイム~
ヤクルト1000飲みました。美味しい。
第4章 僕から伝えたい感謝
家族へ
10歳の時に「中学受験の勉強を止めて選手コースに入りたい」と言った日から、22歳の今日まで。
誰よりも応援してくれたのは、間違いなくオトンとオカンです。ありがとう。
年を重ねても心が幼かった自分は、時に両親が注いでくれる優しさを受け止めようと出来ませんでした。ごめんなさい。
自分の結果で。いや、自分が水泳を楽しんでいる姿で。少しでも親孝行したいと思って、頑張りました。
何とかコロナが収まり、関国で(少しは)良いレースを見せる事が出来て良かったです。
ありがとう。
小谷先生始め中体連の先生方、松本先生・森本先生(高校の顧問)始め高体連の先生方へ
縁に恵まれた僕は、小学生の時から中学校の部活に参加させていただきました。
今の自分に通ずる礼儀や水泳への姿勢を教えていただいたのは、先生方です。
優しい言葉で水泳へのモチベーションを上げて下さった松本先生と近畿大会など何度も遠征で引率して下さった森本先生。
水泳部の顧問をして下さって、本当にありがとうございました。
高体連の先生方にも、秋葉山の合宿や先日の県選でお会いできて、嬉しかったです。
ライバル校の選手だとしても、応援して下さる温かい方ばかりでした。
泳ぐ体力があれば、50Flyだけでも県選に出場したいと思います(笑)
恩師である石橋コーチ・前田コーチ始めJSS姫路の皆様へ
水泳と勉強の両立が難しくなって、精神的に参ってしまった高2の冬。「最後まで一緒に頑張ろう」と、優しく手を差し伸べて下さった石橋コーチ。感謝しかありません。
高校最後の時にJSS姫路の選手でいる事が出来て、本当に良かったです。
水泳を通して出会った兵庫の仲間へ
専門種目も、競技レベルも、競泳に費やす時間も全員違う。
「水泳が好きで頑張りたい」という気持ちを持った人ばかりで、皆んな仲良くしてくれました。
県高の個人決勝。他チームのスタンドからも大きな声援が聞こえた事は、一生忘れません。
出会えて本当に良かった。ありがとう。また会いたいな。
↑移籍するか悩んだ時、夜中の1時半まで相談に乗ってくれた志大。(出演許可貰いました(笑))
大学水泳で出会ってくれた関西の先輩・仲間・後輩へ
同じ種目がキッカケで話してくれた人もいたし、坂道キッカケで話してくれた人もいたし(笑)
最後の最後まで本当に出会いに恵まれた競泳人生だったなぁ、と思っています。
特に、飛び入りで参加した阪大合宿はマジで楽しかったです。
頑張りと笑いがいっぱいの場所で一緒に練習してくれて、本当にありがとう。
京泳会の皆様
日頃より水泳部の活動を支援して下さり、誠にありがとうございます。
コロナ禍での入部となり、皆様と交流させていただける機会が少なく残念ではありました。
引退する前に新歓コンパが開催できた事を、本当に嬉しく思っております。
今後とも京大水泳部に、ご支援ご声援のほど宜しく御願い致します。
水泳部の先輩方へ
自分が最上回生になった時に、皆さんの偉大さを感じました。
一番苦しんでいた時にご飯行って、たくさん話を聞いて下さった雄登さん。
練習に来られる度に、何でも話して下さった光彩さんと京介さん。
引退されてからも、沢山の先輩方に助けていただきました。ありがとうございました。
関国の時に「良いチーム作ったね」と言っていただけた事、誇りに思います。
是非ご飯に連れて行ってください(笑)
現在のところ、「日向坂全国ツアー参戦with大登さん」「飲み会with光彩さん」は開催予定です(笑)
タオルについて少しだけ書かせてください。
2年前の全国公で雄登さんに貰った日から、対抗戦の入場で使わせていただきました。
「3つ前の主任から受け継がれているエースの証として、このタオルを持っていて欲しい。」
毎試合、エースに見合った活躍が出来たか分かりません。でも、皆んなのテンションを上げるキッカケになれていたなら、嬉しいです。
京大水泳部のリレメンとして出場する事への誇り。強くなった気がして、凄い力が湧いてくる不思議なタオル。
託していただいた事に、感謝しています。ありがとうございました。
可愛い後輩へ
僕が主任を全う出来たのは、皆んながいたから。
偉そうな事を言ってるくせして頼りない僕に、ここまでついてきてくれて本当にありがとう。
今まで話した事・全体の連絡メール・LINE、何か1つでも覚えてくれていたら嬉しいです(笑)
「伝えたい事」としては、この後書いています。それを読んで下さい。
個人的にメッセージ欲しい人は、僕のLINEまでどうぞ。
同期へ
ご飯会とか、飲み会とか。普通の大学生が普通に出来るような楽しい事が制限された世代。
各々のキャラ・良さ・本音を知り尽くすには、共に過ごす時間が短かったのかな。
まぁ何と言おうが、競泳面の同期は8人だけです。
辛かったコロナ禍に始まった水泳部での生活を、最後まで続けてくれてありがとう。
全国公に全員が出場できる世代も珍しいと思うので、あと3日間「僕達らしく」頑張ろや。
これだけ多くの人に恵まれた僕の競泳人生は、かけがえない物になりました。
幸せ者です。
第5章 皆んなに伝えたい事
水泳を続ける中で僕が大事にしていた事を書いておきます。
大きく分けて4つ。メニューのDrill覚えるより簡単ですね?(笑)
1つ目「感謝」
何よりも大事だと思っています。
一緒に練習して、部活以外の場でも仲良くしてくれている同期。
色んな場面で力になってくれる、カッコいい先輩と可愛い後輩。
どんな日でも練習をサポートしてくれる、マネージャーとトレーナー。
学連役員をしている部員や計時役員してくれる部員。
色々と思われながらも、必死に動いているチームの幹部。
頭を抱える事がありながらも(俺だけかな?(笑))作ってくれているメニュー係。
支えて下さる先生方やOB・OGの方々。
遠くからでも見守っていて、誰よりも味方でいてくれる家族。
自分が嫌だなと感じる事に対しても、感謝を持てるくらい大きな人になって下さい。
2つ目「水泳”も”大事にする気持ち」
楽しい大学生。水泳以外にも打ち込みたい事あるよね。分かる。
「今、何をしたいか」「何を頑張りたいか」「何をするべきなのか」優先順位を決めて取り組む事が必要です。
ただ、水泳部にいる皆んなに伝えさせてください。
「心のどこかに、いつも水泳を置き続けて欲しい」
京大水泳部は、水泳に対して一生懸命になれる環境が整ってます。間違いない。
水泳に全力で頑張ろうと思った時に、間違いなく全力で取り組める場所だと思います。
どんな度合いでも良い。水泳も大事にして下さい。
※この辺で言っとこ。幹部の決めたルールには、ちゃんと従いましょう。何してもOK、とは言ってませんよ(笑)
3つ目「自分も他人も大切する心」
愛が引退日記で書いていたけど、自分の頑張っている部分を褒めてあげましょう。
「これが出来なかった」とか「もっと頑張らないと」とか、次への改善点を考える事は勿論必要です。まぁでも、その前に出来た事を褒めてあげた方が良い。
加えて、周りの人も大事にして下さい。
人としてのモラルも、(ネタにされましたが)上下関係も、社会で生きていく中で大事です。
部活の時だけでも良いです。礼儀や敬語。「わざわざ」と感じる事が出来る人になって下さい。
「親しき中にも礼儀あり」です。
4つ目「ありのままに水泳部を楽しむ気持ち」
結局、これに尽きます。
この日記のタイトルの通り、僕が14年間変わらなかったのは「水泳が好きで楽しい」という感情だけ。
「楽しむ」の形は色々あります。
結果に拘って努力を積む。泳ぐ楽しさを感じて練習する。沢山の人と仲良くなる。
色んな目的があって当然だと思います。
「色んな人が集まっている中で、どのようにして同じ方向に進むか」を考えるからこそ、楽しいんです。
模索して、間違えて、改善して、また進む。これが部活を作り上げていく醍醐味かもしれませんね。
4つ目は長々と書きましたが、とにかくこの部活で過ごせる時間を大切にして欲しい。
以上です。
最後に
2回の受験休み(+コロナ禍)を挟んで14年間。やっと水泳と別れる日が来ました。
11月の関西国公立OB・OG戦にはエントリーしましたので、院試が終わったら運動を再開しようかなと思います。
水泳部の練習に継続して参加する事は、今日で最後にします。
新たな京大水泳部のシーズンを、1人のOBとして見守る立場になりたいんですよね。
「裕一朗さんがいなくなると寂しい~」と言ってくれる後輩が多いですが、すぐ慣れると思います。
(本当は寂しいと言ってくれるのが、内心嬉し過ぎて堪らないです。知らんけど。)
試合前になって現れるくらいの感じが、レア感あっていいと思いますよ(笑)
そろそろ締めます。
京大水泳部で過ごした時間は、僕の宝物です。
みんな、本当にありがとう。大好きです。
京都大学体育会水泳部 競泳主任
山本裕一朗
2020⇒2021 努来勝
2022⇒2022 全進
2022⇒2023 青炎
p.s
明日からの全国公、頑張りましょう!
コメントに「Go!京大!!!」添えておいてね!
本日の引退日記を担当します。4回生の山本裕一朗です。
後輩の皆さん。「朗」という字は、変換予測に出るようになりましたか?
3年前、「はじめの一歩」というタイトルで書いた最初の日記。
豆のように小さな字体で、「裕一朗の朗は、佐々木朗希と同じ字だ」とか「日向坂が好きで、アルバムを片手に音ゲーしてる事」とか、本当にくだらない自己紹介をしました(笑)
顔も名前も知らない先輩方のコメントを、肝を冷やしながら読んだ事を鮮明に覚えています。
僕が入部した当初、同期は僕を除いて2名。
初回の日記で本名を名乗らない奴が1名。初回の日記を6行で済ませた奴が1名。
この2人の間に書いた僕は、3年間続けていけるか非常に心配になりました。
今では懐かしく、良い思い出です(笑)
日記を書く事、好きですが苦手です。
書こうと決めた良さげな話も、サシ飯の時に湧き出る深い話も、万人が読む文章では淡白になってしまう。
当たった日には前夜から書く事を考えて、稚拙な国語力を使って頑張ってました。
まぁ、そんなに難しく考える必要なんてなかったんだけどね(笑)
些細な話をラフに出来るからこそ「京大水泳部練習日記」です。
好きな食べ物書いたり、他人の事をネタにして笑ったり、謎の写真を載せたり。
入部当初は慣れませんでしたが、京大らしい文化で好きになりました。
今日で最後。関国の前日みたいに、見返して自分で納得できる事が書けたら良いな。
はい。それでは、書いていきましょう。
第1章 選手として過ごした14年間
(というタイトルですが、非常に長い!簡単にまとめて書きますね)
選手育成コースに入ったのは8歳の夏。ただひたすらに、泳ぐ事が大好きでした。
「回れるサイクルを速くしたい」「ベストタイムを出したい」「姫路の大会で金メダル欲しい」
振り返ると小さな目標でしたが、当時の僕を奮い立たせる理由には十分だった。
何なら「頑張って練習して速くなっている自分、カッコよくね?」って思う、イタい奴でした(笑)
水泳を続ける中で、様々な事を学びました。
プールに一礼をする理由も、先輩やコーチに対する礼儀や敬語も、力を合わせてリレーに出る事の楽しさも。今に繋がる全てを教えてくれたのは、周りの人と水泳そのものでした。
中学校の顧問に言われた「感謝を伝える行動が第一。自らのために積む努力は、その上で初めて意味を成す。」という言葉は、今でも大事にしています。
勉強との両立で苦しい時期もありました。引退5か月前に、決死の思いで移籍も決断しました。
家族と恩師が支えてくれて、最後の近畿総体まで水泳を全力で続ける事が出来ました。
コロナ禍での入学。迷いながらも、大学で水泳を続ける事を決めました。
ずっとスイミングスクールで競技をしていたので、部活動で水泳をするのは初。
入部してから間もない頃は、部活動の雰囲気を勉強して自分の取るべき姿勢を模索してました。
大きなチーム目標を掲げて挑む対抗戦。
「京大水泳部の一員で出る大会、楽しみだな。」
「雄登さんが言っていた。レギュラー種目は、責任を持って泳がないといけないんだな。」
「団体権を取るためにも、自分の種目で決勝に残らないといけないんだ。」
「絶対に点数取れる、と先輩に言ってもらえた。何とかして頑張らないと。」
結果。初めての関国では、芳しい結果は得られませんでした。
周りが抱いている期待に応えようとして入れた気合いは、自分に対しての重圧に変わってしまった。
「思っているよりも、自分は期待される事に弱かったかもしれない。」
自分の新しい一面に気付いてから、水泳に対する気持ちが大きく変わる事になりました。
1.自分の持ち味である「チームに対する熱い気持ち」を、「上に積み重なる力」じゃなくて「後ろから押してくれる力」に変えよう。
2.チームへの気持ちが先走らないように、まずは自分のレースをしよう。
自分のレースをした上で、チームに貢献できるようになろう。
何があっても前向きに捉えて楽しめるくらいの余裕を忘れずに、全開のアドレナリンを添える感じ。
振るわなかったレースでも、反省点と同じくらい出来た点を考えてあげるようにしました。
百発百中で出来た訳ではありませんが、3年間を通して「自分成長したなぁ」と感じる場面が増えました。
京大水泳部の3年で、レースに挑むメンタルを鍛える事が出来ました。
「どの種目でタイムが伸びた」などの結果は、割愛します。
歴代記録とスイムレコードを見れば分かる事やし、引退日記で書くのは必要ないかな(笑)
現役選手として泳ぐレースは、全国公のみとなりました。
最後の1mまで、全力で自分らしく泳ごうと思います。
~ブレイクタイム~
オレンジジュースを飲みました。美味しい。
第2章 メニューを作る・メニューに取り組む
1回生の冬に、メニュー作成の依頼を受けました。週1回のEN練習。
託してもらった事への喜びと同時に、結構プレッシャーを感じました。
Endurance練習の担当。加えて、練習の参加率が一番低い月曜日。
まず第一に「頑張りたいと思える練習内容にしよう」と決めました。
起きる事さえキツい、早朝での練習。
なら、「今日は調子が微妙やったけど、この内容は頑張った」と思ってもらえるようなメニューを作ろうと頑張りました。
後半2年は、メイン・試合前の調整も含めて色々作る担当をしました。
説明の時に「メニューに書いていない意識する点」を口頭で説明して、泳ぐイメージを掴んでもらう事にもチャレンジしました。
(それが理由でマネさんを困らせた事もありましたね。ごめんなさい。)
昨日の練習後にも伝えた事になりますが。
毎回(まずはメイン練習だけでも)の練習前で「意識する目標」を考えておく事と、練習後に「意識できた点」を振り返る事を、大事にして欲しいです。
普段から練習ノートを書いている人には、わざわざ話す事でも無いね(笑)
せっかく練習するなら、自分の力になるように取り組んで欲しいです。
頑張って作ったメニューに一生懸命取り組んでもらえる事が、一番嬉しいんです。
メニュー係として思う事は、大半一緒じゃないかな。
第3章 主任として
「チームの総合力を上げたい」と思い、対抗戦の目標順位は高く設定しました。
高い目標を立てた上で、「実現させてあげたい」と思うシーズンでした。
反省点は多々あります。
優二郎が昨日書いていましたが、最初は厳しく言う事が多くありました。
「言って注意すれば、態度から考え方まで変わるはず」と思っていました。
でも違うかった。
誰もが同じ考えを持っている訳もないし、全員の取り組み方・考え方を完全に変える事なんて1年弱では出来ない。
いや、完全に考え方を変える必要なんて無いんです。
各々が抱いている、水泳への気持ちや姿勢を尊重する事にシフトしようと決めました。
途中からは、皆んなの夢・目標・成長を理解して引き伸ばせるような主任を目指しました。
勿論、選手として強い姿を見せ続ける事は続行しながら。
週オフを作ろうと決めた理由は「週6回に対する義務感を、少し楽にできたら良いな」でした。
部員の皆んなが持っている自主性に懸けましたが、より一段と頑張ってくれるようになった気がします。
後輩には色々と改善すべき点を残してしまったと思います。
それも次の世代以降で改善を進めて、より良い方針を考えて欲しいです。
真新しい取り組みとして作ったからこそ、問題点が見つかったと思います。
トレーニング計画のバラつき・試験期間の出席率など。
僕が主任を務めた「青炎」シーズンは歴史の1ページになるだけで、永久不滅のルールや考え方を作った訳ではありません。
部員にとって何がプラスになるのか。各世代でたくさん考えて、模索して、進んで下さい。
チームがより良い方向に進めば、僕の主任としての役目はOKだと思ってます。
→→続き
・2-3 選手として
話は変わり、一選手としての振り返りもしようと思います。
思えば高校生、そして大学2回生の夏まで自分の記録は伸び続けていたように感じます。
必死に自分の泳ぎの分析をせずとも試合に出ればベストは出るので、あまり自分の泳ぎについて考えることはしていませんでした。
これは自分に才能があった訳ではなく、ただ経験年数が浅いが故の「初心者ボーナス」、そして年齢による成長があったからだと思います。
もちろんこの初心者ボーナスがいつまでも続くわけがなく、2回生の冬季公認から自分のベスト率は急に下がりました。特に100Frは急にタイムが出なくなりました。
それでも最初のうちはベストが出ない状況に対して楽観的に考えていました。泳ぎについて考えるようになったし、それを踏まえて今のフォームを変えていけばいつかベストは出ると信じていました。
ただその願望は叶わず、あっという間に3回生の春室が終わり、ついに1年間100Frでベストが出ませんでした。
他の選手からすれば1年ベストが出ないくらいなんだ、と思われそうですが、ラストイヤーで引退が迫っている自分にとってタイムが出ない危機を認識するには十分な現実でした。
春室終わりに自分は寛真と「俺たち、ガッツが足りないっすね」と話したことを覚えています。
ガッツという言葉は曖昧ですが、ベストが出ない原因は日々の練習にあって、僕はベストを出せるだけの自信がつくくらい練習を頑張りきれていなかったから出た言葉でした。
主将として、メニュー係として、最上回生としてなど様々な思いも背負っている中でそのような自分は情けないし、何より試合が面白くなくて嫌でした。
原因を考えるに、僕は性格上練習でサボるのだけは嫌だと思っていたので、練習において95%、つまり一生懸命頑張るくらいのパフォーマンスは労せずとも出せていました。
でも実際にベストを出すには95%の練習では足りず、100%を超える101%以上のパフォーマンスを出す練習が必要であって、それが自分はできていませんでした。
フォームを変えると言ったって自分の浅い知識の範囲では間違った結論になることも多々あって、あまり良い結果につながることはなかったです。
しかも引退は確実に迫ってきている自分が急にフォームを変えることはむしろ負の側面が大きいのではないか、という考えから自分はフォームの改善は春室を持って終わらせるのが良いと判断しました。
ではどうやったらベストを出すことができるのか考えた結果、自分の出した結論はこれでした。
それは、「どんな練習でも1回は際限なく本気で頑張る時を作る」という結論でした。
超脳筋思考だし笑、頭悪い結論なのはわかっています。ただ、残り数ヶ月でベストを出すにはもうこれしかないと本気で思いました。
ただ、そう考えてもすぐに人は変わることはなく、春室終わりはいつも通り一生懸命の範疇でしか頑張れない日々でした。
そんな時に本気で頑張るにはうってつけの4日間の合宿がありました。
自分が変わるにはもうここしかないと覚悟を決めて、4日間は初めて本気で練習できましたと感じました。
本気で頑張る練習はこんなにもきついのかと思い身体も精神もボロボロでしたが、合宿は後悔なく終わることができました。
合宿終わってからは5月末の夏季公認まで合宿のトラウマによって本気を出せない日々に戻ってしまいましたが(本末転倒ですね笑)、合宿終わりすぐにあった地元三重での試合で100Frで0.02秒ベストを更新しました。
あの時はたった0.02秒だけど久しぶりにベストを更新できて本当に嬉しかったです。
短水路シーズンが終わり、練習が長水路に移行したポイントでまた日々の練習で1回は本気を出すことを意識しながら練習に取り組めるようになりました。
ENでは絶対に回るんだという思い、メインの最初からフルマックスで泳ぐ、ENやメインでのラスト25mは無限にキック打つなど、昔の一生懸命の範疇でしか頑張れない自分に戻るのが嫌だし、何よりベストを出すためにとにかく自分に厳しく本気で練習しました。
そして京選、関チャ、関国、七帝、関カレが終わり今に至ります。
ちっぽけなものですが、長水路の試合ではリレー含めたらどれか1つはベストを出せるくらいにはなりました。それでもベストが全く出なかった時期に比べれば成長できたと思います。
またベストが出なくても「こんだけ頑張ったんだからもうそれはしょうがない」と思えるくらいに、日々の練習に後悔はありませんでした。
もう競泳に対する未練はないです。
競泳人生ラストレースである新潟である全国公まであと僅かになりました。
最後は精一杯楽しんで、悔いなく競泳人生を終わらせようと思います。
③感謝
本当に長くなってしまいましたが、最後に多方面に感謝を述べさせてください。これを書けずには終われません。
・マネージャー、トレーナーの皆様へ
寒い日も、雨の日も、暑い日もどんな時も選手のサポートをしてくださりありがとうございました。
また、レース直前に聞こえる応援の声は本当に自分を奮い立たせてくれました。皆様の応援、サポートに応えたいと思い試合では頑張ることができました。
スタッフ陣のもっと仕事ができるようになりたいという向上心は本当に美しく、かっこよかったです。
・リレーメンバーへ
まだ全国公を控えていますが、一緒に泳いでくれてありがとうございました。自分はやっぱりリレーには特別な思いがあって、ずっと出るのが目標でした。
引き継ぐ際に前の人が必死に泳いでいるのを見ると燃えてきて、自分の実力を最大限発揮できるような感覚でした。
結果が出なかったら個人のレースよりずっと悔しいですが、それでも全員で繋ぐこのリレーは大好きでした。
僕は4kだけなのであと1回です。最後のリレーは笑って終わりたいな。頑張ろう!
・同期のみんなへ
僕の勝手かもしれないですが、まずは全員辞めないでくれてありがとう。
行動力、継続力がある日奈子
超多忙な中頑張っている愛
部員全員から信頼されている加奈
競泳に対する姿勢がかっこいいひなた
人の話を聞くのが上手い暖
熱い想いを持った裕一朗
努力の塊みたいな諒聖
人数は少ないし、なんか仲悪いみたいなことを周りから言われていましたが、僕にとっては誇れる同期ばかりです。
最後に良い写真撮れたらいいな。
・両親へ
(この日記を見ていたら驚きですが)応援してくれてありがとう。
関国で見にきてくれたのですが、その時の僕はどんな姿だったのでしょうか。
我儘に生きさせてもらった分、少しでも結果で恩返しできていたら嬉しいです。
・川井田先生(高校の顧問)へ
未熟な僕に対してたくさん指導してくださりありがとうございました。
僕の成長、競泳生活は川井田先生なしでは語れないです。
高校卒業後も競泳の結果を気にしてくださっていること、嬉しかったです。
・高校、大学の偉大な先輩の皆様へ
先輩の皆様は本当にかっこよかったです。先輩の皆様の大きな背中を追いかけ、追い越したくて頑張りましたが、到底及びませんでした。
多方面でご活躍される皆様の背中をこれからも追わせてください。
・後輩のみんなへ
頼りないだろうキャプテン、主将で申し訳なかったです。でもこんな僕に優しくしてくれて、仲良くしてくれて本当に嬉しかったです。ありがとう。
事務連絡から部の運営まで多方面で後輩のサポートがあって、最適ルートではないですが何とか部を引退するところまで来れました。
これからの水泳部での生活、活躍を応援しています。選手たちは全国公、夏季長でかっこいい姿を見せてほしいです。
せっかくなので思い出深い写真を貼って終わろうと思います。長い長い文章を読んでくださりありがとうございました。
集合写真
リレー
「関カレを忘れるな」という共通目標で1年間頑張ったAfter写真
初めて本気で練習できた合宿
ありがとう、みんな。
京都大学体育会水泳部主将 福田優二郎
2020-2021 努来勝
2021-2022 全進
2022-2023 青炎
お疲れ様です。4回生の福田優二郎です。
・雑談1
昨日、大学院入試が終わりました。良い結果だと良いなあ。
自分の所属している研究室は倍率1倍なので早々落ちないと言われてきましたが、終わってみると少し不安なところもあります。
大問2つ解けてないし、、、、笑
また合格だけでなく、入試の点数が良いと来年度の奨学金の案内が回ってきやすいと教授から聞いたので点数も欲しいです。受かってたらの話ですが。
・雑談2
これも昨日ですが、嵯峨野、西京、洛北高校水泳部との交流がありました。
協力してくれた皆さまありがとうございました。自分は入試があったので最初は参加できませんでしたが準備には携わらせていただきました。
まさか吉田部長と西前副部長の研究室を訪問させていただけるなんて!連絡してみて良かったです。
昨日の交流で高校生の将来像が少しでも明瞭になればこの上なく嬉しいです。
話を戻します。引退日記です。
ずっと何を書こうか悩んでいたのですが、あっという間に担当日が来てしまいました。
色々考えた末、
自分のこれまでの競泳生活、思っていたことをありのまま話そうと思います。自分の話ばっかりになります。大学水泳に限らず様々な話もあり関係ない話も多いです。すみません。
自分の感情を文章に載せるのは苦手だし、僕の過去は誇れるものではないのですが、どうか最後まで読んでくださると幸いです。
①京大水泳部に入部するまでの話
皆さんには関係のない話ですが、自分にとっては大事なので書かせてください。
運動が得意とは言えなかった自分は中学時代あまり部活に対して関心がありませんでした。
友達が入るからという理由で入部したサッカー部に入っていましたが、活躍できる才能は勿論なく、それを補う努力もせず、2年生から幽霊部員になりました。
ただ、3年生になり友人たちが引退していく時の満足そうな顔、悔しそうな顔、泣いている顔を見ていると、徐々にこれまでの自分の怠惰な、怠惰な、怠惰な学生生活を後悔するようになりました。
「自分もそうなりたい、高校ではちゃんと部活をしよう」と思い、高校では新たに競泳の世界に飛び込みました。
高校からは変わってそれなりに真面目に練習するようになりました。
初心者だから泳ぐほどタイムは上がるので競泳を楽しいと感じていました。
真面目さを認められたのか理由はわからないですが、遅いながらも1年生の冬にはキャプテンを任されるようになりました。(速い人はクラブチームで練習していたのでキャプテンにはなれないシステムでした)
ただキャプテンになってから顧問に叱られ始めて、自分は真面目なだけであって、能力や才能がないことに気づき始めました。
練習でサボっている人がいても嫌われるのが怖くて言えない、キャプテンとして話すときにうまく話せない、そして泳力もないから背中で語ることもできない。そんな姿が嫌だと思っていたらまた別のことで顧問に叱られる。
キャプテンだった1年間は本当にたくさん顧問に叱られました。当時は嫌で仕方なかったです。(今振り返ると顧問によって少しずつ自分は成長させてもらうことができたと思っています。本当に感謝してます)
選手としての目標は個人で東海総体に出場することでした。(都会の県総体と違ってレベルは異なりますよ)
東海総体に進めないと県総体で引退することになります。まず予選で10人が選ばれ、決勝で8位以内だったら東海総体に出れるというようなシステムでした。
高3の最後の総体で絶対に活躍したい、その気持ちで1年間努力しましたが、結果は予選11位でした。
本当に悔しくて、情けなくて、カッコ悪くてしばらく動けなかったことを覚えています。しかも、その悔しさをもう晴らす試合もない。
あまりに悔しくて、もう競泳なんて(そして自分なんて)嫌いだと思ってた県総体2日目でしたが、その日突然リレーメンバーの人から東海総体で4継に出て欲しいとお願いされました。
個人の100Frのタイムがリレー出てる人とタイムがほとんど同じだから、みたいな理由を言われた気がします。ただ実際は温情だったと思います。嬉しさと、申し訳なさが混ざった複雑な感情でしたが、その話をありがたく受け入れ、リレー(4k,なぜか8kも)で東海総体に出場させてもらいました。
せっかく頂いた枠の責任を全うするためにもどちらも努力し、そしてベストを出すことができました。こうして僕は高校水泳を引退しました。
「終わりよければすべて良し」という言葉があるように、自分は数えきれないほど叱られたり、悔しい結果を出しましたが、東海総体の思い出があるから引退してからも競泳を好きであり続けることができました。
その時のリレーメンバーである大世、稀帆、栞優、そして幸登には本当に感謝しています。大学生になっても競泳を続けることができたのは彼らのおかげです。
長くなりました。大学までの競泳生活をまとめると
・怠惰な生活から抜け出すために競泳を始めました
・リーダーとしての素質のなさを自覚しました
・リレーには特別な思いがあります
です。
そして受験が終わり、大学生が始まろうとしている時にコロナで活動制限を受けました。
一人暮らしも始まりました。ですが初めての一人暮らしで、さらに外出制限を律儀に守っていた自分はすぐに病みました。
そんな大学1回生前期ではまた中学時代のような怠惰な生活に逆戻りしました。
しかし、後期になると京大水泳部が活動していると目にし、怠惰な生活から脱するため、そしてまたあの時の喜びを感じたいと思いに京大水泳部に入りました。
②京大水泳部に入ってからの話
①が長くてごめんなさい。ここからが本題です。
・2-1 主将として
入部してから1ヶ月ほど経ち、どのような役職があり、どのように運営されているのかを何となく理解し始めた時に裕一朗からこんなことを言われました。
「将来、俺とお前で主将主任をやることになると思う」
その後に理由も言ってくれました。裕一朗がそのように言う理由は理解していました。でも、僕はすぐには受け入れることができませんでした。
なぜなら高校でキャプテンをした経験から自分がリーダーに向いていないのだろうと考えていたからです。
その悩みはずっと僕から消えることはないまま2回生の冬、誰が主任主将をするのか決める日(by電話)になりました。
裕一朗は自分から主任に立候補しました。ただ、自分は立候補ではなくて日奈子たちから推薦されて主将になりました。情けないですよね。
ただ、主将になることが確定してから代替わりするまでもずっと自分は主将としてやっていけるんだろうかという不安は消えませんでした。
人前で話すのが苦手なのに話せるのか、練習の時に部員を鼓舞できるような存在になれるのか、OB・OGさんとうまく関われていけるのか、僕が部員をまとめる能力はないんじゃないか、そして良いチームを作れるのか。
チームを代表する立場なのにそんな不安がってどうするんだというのは頭では分かっていました。でもやっぱり、しばらくは主将として上手く立ち回れず、高校の時と同じような嫌な感情が押し寄せてきました。
11月になって1度トラブルがあって、裕一朗を叱った日がありました。もっと後輩の意見を聞け、厳しいだけじゃ誰もついてこない、などを裕一朗に対してかなり厳しく言いました。
でも、当時の僕はそんなことを言う資格はありませんでした。だって自分はそもそも主将として、リーダーとして動けていないことが多すぎたから。僕が動けていない中で裕一朗、ただ一人が動いていたことの大変さを理解すべきだった。
あの日、怒られるべきなのは自分でした。
トラブルが起こっていることに気づかない、気づくために動く努力さえ怠っていた自分が本当に情けなかったです。
その日から自分の中でようやく主将としての覚悟らしきものが決まり、自分の中にある不安を解決しようと努力をするようになりました。
小さなことでも良いから、チームを良くしようと努力することだけは諦めないようにしていました。
ただ、変わろうと努力をしてもすぐに結果が現れる訳ではないので、自分が主将として今日まで、上手く立ち回れていたかと言われたらYesと言えません。
相変わらず人前で話すのは緊張するし、後輩の意見を聞くのは難しいし、チームの運営(NFや合宿,それこそ昨日の高校生との交流とか)をする中で何度も部員や同期に迷惑をかけました。
努力しても足りなかった自分の力量のせいで迷惑をかけてしまい申し訳無かったと思っています。
ただ、こう思うのはまだ早いのかもしれませんが、主将という役職を一年間させてもらったことは自分にとって大きな成長のきっかけになりました。
チームを運営する難しさを実際に経験し、自分が未熟だと実感させられたからこそ、もっと人として成長したいと思えるようになりました。
1年間主将という大事な役割をさせてくださりありがとうございました。後少し引退まで日があるのでそれまでは責務を全うします。
・2-2 メニュー係、フリー面パートリーダーとして
光栄なことに、自分は主将という役割に加えてメニュー係もフリー面パートリーダーもやらせていただきました。
メニュー係としても、フリー面パートリーダーとしても自分の目標はほとんど同じで、「選手が自分から競泳に取り組んでくれること」でした。
メニューでは大事なところで頑張ってもらうように全部キツくするのではなくて緩急をつけたり、少しでも選手が頑張れるようにサイクルを調整したり、メニューの書き方やタイトルを工夫したりしていました。
パートミーティングでは選手が競泳について考えるきっかけになるようにと発表形式にしてみました。
結果として自分が掲げた目標に対して100%達成できたとは言えません(特に発表形式に関しては結局やらせているだけで、根本的解決には及ばなかったと思う)が、選手のうち誰か一人でも心持ちが変わっていれば良かったのかなあと思います。
また、1年間を通し約80個ものメニューを担当させてもらいました。メニュー作成は初心者で、内容が良く無かったものもありそうですが、どのメニューも真剣に作りました。
自分が作るこの一回のメニューが選手の成長という階段の1段になれるかもしれないと考えると無限にやる気が出てきました。
もちろん、メニューの良し悪しによって選手のベスト率を全部操作できるとは考えていないです。
選手がベストを出した時、それは紛れもなく選手自身が努力した結果です。ただ、その努力ができた環境要因の一つとして自分たちが作ったメニューがあったなら嬉しいです。
1年間ありがとうございました。自分が作ったメニューを選手が頑張っているのを見るととても嬉しく感じていました。
続きます→→